【コラム】神社の源流を訪ねて(32)

豊受大神と奥宮真名井神社

栗原 猛

◆ 豊受大神は渡来神?

 「丹波」は、古くは「たには」だった。兵庫県の篠山市(多紀郡)、氷上郡と京都府の3市3郡の総称で、兵庫丹波、京都丹波とも呼ばれる。
 国名は、記紀によると丹波・旦波・但波・丹婆・谿羽などの文字が当てられている。「諸国名義考」では「田庭なるべし」とある。

 この地に勢力のあった海部氏は、氏神として豊受大神を祭祀して、朝鮮半島とも交流し、漁業、海運、農耕、養蚕、酒造などに携わった。海部という地名は沿岸地域に多いので、同族が広がったのであろう。奥宮真名井神社(おくみやまない)は、元伊勢籠神社の奥宮で、周辺には縄文遺跡や古代の祭祀遺跡が出土する。
 豊受大神が伊勢の外宮に移った経緯は、社伝の「止由気宮儀式帳」に有名な記事がある。雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、一人では食事が安らかにできないので奥宮の真名井神社にいる御饌の神、豊受大神を呼んでほしい、と言われたとある。

 天照大神は古事記には、「大日孁貴(おおひるめむち)」と書かれている。「おお」は尊称、「ひるめ」は巫女、「むち」は一番位の高い巫女という意味とされる。神社の信仰から考えると、穀神がいてこれを司祭する巫女がいるという関係になるのではないかとの指摘もあるが、それはともかく、『丹後国風土記』の逸文には、彦火明命は丹後、丹波地方に養蚕や稲作を広めたとされている。また彦火明命は籠に乗って竜宮に行ったという神話もあり、対馬、壱岐の海人族に共通するものを感じる。

 中国の正史『史記』に徐福の丹後渡来伝説があり、丹後地方に稲作や鋳鉄、医学、機織などの技術をもたらしたとしている。当時の重要な産業は、中国や朝鮮半島から伝わっており、郷土史家の梅本政幸氏は『丹後路の史跡めぐり』で、「五穀の神と知られ、豊受大神などは大陸よりの帰化人らしく思われ、」とする。

 同じ風土記の逸文には、奈具社(なぐしゃ)の縁起に関連して、豊受大神に関する記事がある。その昔、丹波郡比治里の比治山頂にある真奈井で、天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて、天に帰れなくなった。その老夫婦の家で、万病に効く酒を造り夫婦は豊かになるが、やがて家を追い出され、漂泊した末に奈具村に来てそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売命(とようかのめ、トヨウケビメ)で、豊受大神と同一神とされる。

 天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも―と詠い、村々を遍歴して京都府竹野郡奈具村に来て「此処にして我が心なぐしく成りぬ」(わたしの心は安らかになった)といって、終焉を迎えた。村人たちは豊宇賀能売命を丁重に祀った―という。天女伝説は渡来人が開拓した地域に多いとされる。

 『日本書紀』には5世紀に対馬、壱岐から亀卜や神社を磐余(奈良)や京都に遷座したという記事がある。海部氏の祭神、豊受大神を大和政権が伊勢に招いたのは、影響力があったからできたはずで、穀倉地帯で、鉄などの最新技術と大陸との交流の拠点の田庭地方に、勢力を広げようとしたのではないか。

 中世に入ると、伊勢神宮の外宮の神職である渡会家行氏が、伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神で、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であると主張している。

 (元共同通信編集委員)
                          (2021.07.20)
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