【時世時節】

関東大震災から100年

―ある津和野人の体験
羽原 清雅

 9月1日は関東大震災から1世紀。東京を中心に死者・行方不明者10万5千人余のうち約9割は火災死、住家の全半壊20万余、全焼45万戸。極めつきの大惨事であり、これはアジア・太平洋戦争への助走でもあった。

 この大震災に巻き込まれた津和野人が、前年に発刊されたばかりの「サンデー毎日」に惨劇の現場を書き残していた。中山泰昌(三郎・1884‐1958)という言論人である。中山は、津和野の高等小学校卒ながら上京後に出版業を興し、自ら「日本精史」など分厚な数冊を書き、文学大系、国歌大系など計78巻もの全集を執筆・編集、さらに国語、難訓辞典3種を自力で仕上げた。とりわけ明治期の新聞記事を年代別に収録した「新聞集成 明治編年史」15巻は出色の出来だった。知名人の多い津和野でも名を残したい人物である。

 彼の震災経験談を紹介しよう。この週刊誌の9月16、23日両号に載る。この記事は国立国会図書館のマイクロフィルムに依ったのだが、活字がつぶれて読み取れないところもあり、趣意を汲むしかないのが残念だ。

 家を焼かれた中山は母、妻、3人の子を連れて避難。教師である妹の夫が3日間不明で、勤務先一帯は全滅との新聞の号外を見て一時は死を覚悟したが、「御真影を捧持し、之を守護して上野の山に避難」して元気な姿を見せた。2日目には神楽坂警察署に2,300人とともに泊まることができたが、全身包帯にまかれて手足の骨が折れ、時折ピクリ、ピクリと動く男が、翌朝には顔が白い布で覆われていた。聞けば、伯母を助けた際、崩れ落ちる屋根の下敷きになったのを見た。
 吉原の女性が火熱の苦しさに池に飛び込むと、我も我もと折り重なって水死に至った。すると、早くも死体の懐から「懐中物を漁った奴も」。亀戸ではたばこの「敷島」1個が20銭、上野では梅干し1個10銭にも。新聞社の写真班でもない者が被害者の写真を撮ったら、叩き殺されたり。新宿などの駅でいつ動くかわからない列車を待つ人たちが、互いの身の上話に涙を流していたかと思うと、列車が来るとなるともう他人となり、我勝ちに死にもの狂いで席を取り合い、「自我と本能をむき出し」にした。
 見出しには「『人間』の醜さに直面して—弛緩し頽廃した人心から●れる新東京の建設が恐ろしい」とある。

 中山の記事では一切触れていないが、大震災直後には多くの事件が発生していた。
 ①自警団などによる多数の朝鮮人虐殺事件 
 ②甘粕憲兵大尉による無政府主義者大杉栄・伊藤野枝らの虐殺事件 
 ③軍隊による労働運動家河合義虎ら10人の刺殺事件 
 ④官憲による在日朝鮮人の無政府主義者朴烈夫妻の自殺・懲役事件 
 ⑤軍隊による中国留学生王稀天殺害事件 
 ⑥自警団による香川県人行商15人中幼児を含む9人殺害の千葉県福田村事件、
などがあった。軍や警察など公的機関の思想弾圧、あるいは民衆の間の流言飛語などによるもので、混乱時とはいえ許されない事態が数多く発生した。

 震災という自然現象だが、時代の流れも頭に置きたい。震災不況のあと世界恐慌など3波も続き、軍や右翼の謀略が5・15事件、2・26事件などを招き、現・元の首相、閣僚、経済人らの殺傷害を引き起こす。多数の共産党員や学者らが治安維持法と特高警察のもとに検挙、殺害され、言論が封じ込まれる。中国要人の爆殺や傀儡的な満州国が生まれ、満州事変、日中戦争、第2次世界大戦に至る。わずか15年ほどの歴史だった。

 この大震災時に、勅令の戒厳令が出され、軍部や警察等に超法規的権限がゆだねられ、その一端からデマによる被害が生じた。だが、小池百合子東京都知事は、特殊な犠牲に遭った朝鮮人たちの恒例の慰霊式典に追悼文を送ることをやめた。災害の被災者と同じ扱いに、というだけで、理由は示さない。
 日韓、日朝、日中の関係が問われる昨今、なぜ追悼さえできないのか。1世紀前の不幸を改めて招き寄せる印象さえ漂わせる。  
                   
 <この原稿は9月2日付の山陰中央新報のコラムに掲載されました>
 (元朝日新聞政治部長)

(2023.9.20)
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