【コラム】神社の源流を訪ねて(39)

阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)

栗原 猛

◆「天照大神」の原型は対馬生まれ?                  
 対馬は、古くから亀卜(きぼく)が盛んだったので、機会をうかがっていたら、韓国側から渡ることになった。釜山からだと50キロ、九州からよりずっと近いが朝鮮海峡が荒れ連絡船がかなり上下に揺れた。魏志倭人伝は、対馬について「南北に市糴(してき・交易する)す」とある。面積は710平方キロ、島の89%は山地で農地はわずかだから、人が住み始めて以来、海が生活の主舞台だった。                             

 対馬の海洋民は、島の中央にある静かな浅茅湾を拠点に、列島各地を行き来し、大陸の進んだ文明は対馬、壱岐を経て列島に伝えられた。対馬の朝鮮半島に近い方が上県(かみあがた)、九州に近い方が下県(しもあがた)と呼ばれるのも面白い。夜は釜山の夜景が望め、少し前までは夜中に急病人が出ると釜山の病院に駆け付けたという。                                               

 対馬に行く前に読むように勧められた対馬出身の古代史家、永留久恵氏の「海神と天神―対馬の風土と神々」には、延喜式に記載の式内社は九州全体で98社あり、対馬と壱岐で53社(対馬29社、壱岐24社)を占めているとある。いったいこれはどういうことなのか。                               

 対馬には独特の天道信仰があり、これは太陽信仰で、日神信仰とか穀霊信仰が核になり、祭祀の方式では天童と母神が天道山の雄嶽(子神)、雌嶽(母神)のように対の形で崇敬されている。仏教が伝わると天道法師という超人伝説が生まれる。一方古事記、日本書紀に登場する高御魂神社(たかみむすび)、神御魂神社(かみむすび)、阿麻氐留神社(あまてる)も存在する。                            

 その昔、トぼくは対馬と壱岐には早くから伝わり、為政者は何をするにも吉凶を占って判断したようだ。最初は鹿の肩骨を焼いて占う太占(ふとまに)と呼ばれ、亀の甲羅を使う亀卜は5世紀に中国から伝わり、大和朝廷には豊作、天候、疫病などを占う卜部が伊豆5人、壱岐5人、対馬10人で構成されていた。            

 また日本書紀には5世紀に対馬と壱岐の亀卜が、磐余(いわれ・奈良)に移り、対馬の阿麻氐留と高御魂は奈良へ、壱岐の月読(つきよみ)は、京都に遷座したという記述もある。                       

 この遷座は、祭政一致を進める大和政権にとって、重要な意味があったと思われるが、神の歴史からみると、対馬、壱岐の神々がまずあって、つまり天照大神の原型は対馬の祭祀形式の中から生まれたとも考えられるのではないか。                             

 阿麻氐留神社のある、対馬海峡と浅茅湾に挟まれた細い陸地の「小船越」を訪ねた。船を陸に上げて通したことからついた地名という。高台にある歴史のありそうな緩やかな石段を登り切ると、明るい平地が現れ中央に阿麻氐留神社がある。ちょっと奇異に感じたのが本殿にガラス戸があって民家風だったことである。由来書などを求めようと本殿を一回りしたが、見つからず神主さんもお留守のようだった。                    

 中国には太陽が10個あり、干ばつを起越すので弓矢で9個を射落としたという神話があり、阿麻氐留神社に古くから伝わる弓で的を射る神事は、中国のこの故事に由来しているとされる。近くには日本最初の寺といわれる梅林寺がある。半島の仏教はまずここを通って列島に伝わったのであろう。                            

 永留氏は著書で「天照大神という名称は、特に格上げされた政治的な尊称で、それよりも阿麻氐留神が素朴で古い」と指摘している。対馬には記紀神話に出てくる神々やその伝承が数多くあり、「神話の宝庫」とされるが、案内書がない神社もある。記紀神話に遠慮しているわけではないだろうが、もっとアピールしてもいいのではないかと思われた。  以上                            
(元共同通信編集委員)

(2022.2.20)
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