【コラム】神社の源流を訪ねて(33)

韓神新羅神社(からかみしらぎ)、五十猛神社(いそたけ)

栗原 猛

◆ 小学校校歌になった素戔嗚命と五十猛

 大田市は島根県の中部、出雲と石見の中継点として歴史に大事な役割を果たしてきた。したがって神話にまつわる貴重な話も少なくない。
 市東部にある三瓶山は、「佐比売山」とも呼ばれ、『出雲国風土記』の国引きの神話によると、「火神岳」(大山)と島根半島を引き寄せて、繫ぎ止める杭の役割を果たしたことになっている。

 韓神新羅神社は、JR山陰本線の五十猛駅から、潮の香りをかぎながら坂道を徒歩15分。五十猛町(磯竹)の大浦漁港を見渡す高台にある。社殿は東向き、正面の鳥居の前の石柱に、韓神新羅神社と彫り込んである。

 祭神は武進雄命(たけすさのおのみこと)、大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命(つまつひめのみこと)の三神である。武進雄命は素戔嗚命の別名で、他の2神は子神とされる。創立は、石見風土記には925(延長3)年とある。
 社伝によると素戔嗚命は、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命を連れて新羅国に天降り、植林技術を伝えた。終えて新羅から渡来して、大浦海岸近くの神島に上陸し、ここにとどまり、暫くたって航海安全や大漁を祈願する神としてこの高台に遷したという。

 韓神新羅神社の韓は、半島にあった加羅、加耶両国のことで、後に新羅に併合された。さらに社伝には、当社だけが「韓神」と称し続けているとある。「韓国」「辛神」「新羅」という神社はかなり見てきたが、「韓国」と「新羅」の両方が名前についている神社はここだけということであろう。背後にある山は「韓郷山(からごやま)」で、大浦湾は往古、「韓浦」、「大辛浦」、「韓崎」、「韓島」などと呼ばれている。

 境内の説明板には 、地元では「大浦神社」「明神さん」とも呼ばれていると記す。人麿神社跡も近くにある。万葉歌人、柿本人麿を祭る神社で、この地に何か思い入れがあり足跡を残したのではないか。

 一方、五十猛神社の社殿は、五十猛駅前に広がる逢浜海岸の砂の丘陵地にある。五十猛命は、父神・素盞嗚命とは別に、大屋津姫命、抓津姫命の兄妹神とともにここに鎮まっている。両神社の祭礼では今でも人々が担いだ神輿が、韓神新羅神社と五十猛神社の間を行き来するという。

 五十猛神は、朝鮮半島から持ってきた樹木の種を、筑紫から始めて各地に撒いたとされるが、この五十猛神社の境内は広いが、日本中を青々とさせた神にしては、境内に木が少ない感じである。木の国、和歌山県和歌山市にある伊太祁曽(いたきそ)神社の祭神も五十猛神だが、こちらは木々がこんもりして豊かだ。
 五十猛村誌には、「五十猛命帰還の日、当国の大浦において素戔嗚命はご鎮座を引渡し、唐の縁に寄り韓神と号し祭る」という記事がある。

 大浦地区には毎年、1月11日~15日まで小正月に「グロ」と呼ばれる行事が行われる。「山陰の民俗と原始信仰」によると、千木(せんぼく)と呼ばれる大竹をたて、周りに木や竹やむしろで円形の仮屋をつくる。その中に歳徳神(としとくじん)を迎え、火にあたり、餅など焼いて食べながら、深夜まで歓談して過ごすという。病気をせず、豊漁祈るための行事といわれる。今も続いているが、2021年はコロナで中止された。この行事は西日本地域でも特色ある行事として注目され、大田市の指定無形民俗文化財及び国の重要無形民俗文化財になっている。

 大田市五十猛小学校の校歌の一番は「八重の潮路をふみさくみ 村のいしずえかためんと 渡りきませし われらの祖先 ゆかりの地なる わがそのお」とある。「渡りきませし われらの祖先」とは、素戔嗚命と五十猛命のことで、父子神そろって多くの人々から慕われているということだろう。

 (元共同通信編集委員)

(2021.08.20)
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