【コラム】神社の源流を訪ねて(36)

香春(かわら)神社

栗原 猛

◆ 香春の里は「秦王国」だった

 五木寛之の『青春の門』に登場した「月が出た出た月が出た」の炭坑節は、盆踊り歌として全国に知られる。香春神社はJR香春駅から神社の大鳥居まで、香春岳の三つの峰に向かって15分ぐらい田園地帯を歩く。
 香春岳は田川盆地の3つの峰の総称で、南から北へ、一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と並び、古代から神の住む山として田川の人々に親しまれてきた。三つの岳は石灰岩でできていて一ノ岳の中腹にはセメント工場がある。492メートルの高さのほぼ半分が削られた。周囲の山は青々しているのに、ここだけ白く平らになっていて痛々しい。

 香春町役場の前に「豊前国風土記逸文」の石碑が立っている。「田川の郡。香春の郷、郡の東北のかたにあり。此の郷の中に河あり。…此の河の瀬清浄し。因りて清河原の村と号(なず)けき。今香春の郷と謂ふは訛れるなり。昔者、新羅の国の神、自ら渡り到来(きた)りて、此の河原に住みき。便即(すなわ)ち、名づけて河原(かわら)の神と曰ふ。…第二の峯には銅、并(ならび)に黄楊(つげ)、龍骨等あり。第三の峯には龍骨あり」―とある。

 龍骨とは動物の化石で、不老長寿の薬とされる。香春神社の説明書には、「一座、祭神は辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)(神代、唐土の経営に渡られ給い崇神天皇の御代にご帰国、香春に鎮まり給う)。二座、忍骨命(おしぼねのみこと、天照の第一の皇子で、香春二の岳に鎮まり給う)。三座、豊比咩命(とよひめのみこと、神武天皇の外祖母。住吉大神宮の御母にて三の岳に鎮まり給う)。…709(和銅2)年、一ノ岳南麓に一社を築き三神を合祀し香春宮と尊称した」―とある。

 辛国息長大姫大目命の「辛国」とは韓国のことで、朝鮮半島から銅の採掘者や精錬技術を持つ、渡来集団が守護神として祭った神であろう。ただし「太宰管内志」は、応神天皇の関係も母で、三韓征伐の神功皇后について、古事記は息長帯売命・大帯比売命とする。また息長は渡来の神、天日槍の子孫ともいわれ、辛国息長大姫大目命と神功皇后の同一性が指摘されている。

 第三の峯の麓には「採銅所」や「採銅所小学校」があり、採銅所はJR日田彦山線の駅名にもなっている。ここを開発した人々は、応神14年に秦氏が百済の百二十県の民を率いて渡来した弓月王の後裔とされ、香春の銅は東大寺の大仏、和同開珎にも使われた。
 大和岩雄氏の『秦氏の研究』、加藤謙吉氏の『秦氏とその民』などでは、香春の地は新羅、加羅系の秦族が開発して「秦王国」を形成していたのではないかとする。

 町役場で香春町の古い資料をみせてもらった。カラクリ、唐ヶ谷、唐花、唐ノ山、唐細工、唐人池、唐木、唐川、唐子橋、唐ノ町、唐人原、呉屋敷、呉、クレ町などという町名は、渡来と関係があるように思われた。
 宮司を務める赤染、鶴賀両家は往古の渡来人で、清少納言や紫式部らと同時代の歌人、赤染衛門は一族という。支石墓も朝鮮半島から伝えられた墓制だ。西鉄の駅名に「白木原」(しらきばる)があり、東京銀座にあったデパートは白木屋(しろきや)と読んだ。童謡の「埴生の宿」「庭の千草」の作詞者、里見義(ただし)氏は、香春神社の神職だった。

 (元共同通信編集委員)

(2021.11.20)
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