【オルタの視点】
距離感の無い者たちの双方向性
〜高市発言を巡るメディア論〜
私がかつて働いていた職場では、もう2年間もグロテスクな価値観の持ち主がトップの座に居座っている、と私は認識している。定年後、フリーのジャーナリストとして活動を続けているが、「元の職場は?」と聞かれるたびに、職場名をあげるのに、以前は感じなかった羞恥感に襲われるようになった。2年前、メールマガジン「オルタ」へのコラム連載執筆の依頼を初めて受けたとき、私は、コラム(「大原雄の『流儀』」)第1回の原稿として次のようなことを書いた。残念なことに状況は2年前と変わっていない。以下、一部を抜粋・再録したい。再録に当って、年号記入や注など若干の補筆をした。
「NHK会長らの居座りを許すべきではない」 (「オルタ」124号、2014年4月20日刊)
NHKの会長になった籾井勝人という人物は、従軍慰安婦、靖国神社参拝、国際放送、特定秘密保護法などに関する会長就任会見(2014・1・25)での発言内容の問題性、お粗末さもさることながら、基本的に、「権力との距離感」の取り方が判っていなくて、言論表現機関、報道機関の責任者として不適格だと、思う。
言論表現の自由とは、何よりも「権力からの自由」でなければならないからだ。(略)3人(コラムでは「不適切なNHK経営委員」として、籾井勝人会長とあわせて百田尚樹、長谷川三千子の当時のふたりの委員も取り上げていたので、「3人」となる—注)とも共通していることは、1)安倍政権がNHKに送り込んだ人物であるということ。2)権力との距離感の取り方が、言論表現、報道機関としてのNHKの責任ある立場にふさわしくないということ。基本的に資質に欠けていると、思う。
不祥事が相次ぎ、NHKの経営感覚がお粗末だという時なら経営者出身の会長もまだしも、言論表現機関、報道機関としての見識が問われる時には、そういう資質のある人を会長にすべきだろうし、資質に欠ける人をいつまでも会長にしておくべきではない。NHK内部で出世して来た人物(内部では、「NHK官僚」と呼ぶ)に適切な人が居るとは必ずしも限らないが、広く言論界から選出しなおすべきだろう。
と書いた。
2016年2月28日のNHKの広報番組「NHKとっておきサンデー」に約8分間出演した籾井勝人会長は、自分の在職期間中に次々に明るみに出たNHK職員や関連会社の社員らの不祥事について陳謝をし、関係者の処分、再発防止策を公表したが、これらの件の対応ぶりから見て、この人物は経営感覚もお粗末なのかもしれない(以上は、2016年2月29日付けの朝日新聞朝刊より、要旨を引用)、と思った。
ところで、一説によると、安倍政権の中でも籾井評価が異なり、NHKと政権のメッセンジャーとしてこの男を利用している一派と、相次ぐ不適切発言に業を煮やし、いわゆる「籾井降ろし」に走り始めた一派が、NHK内部の「権力争い(立身出世に拘る輩の争い)」を利用して入手した不祥事情報を一部のマスコミに流して、この男の脚を引っ張っているという噂もあるらしいが、私は取材をしていないので、真贋は不明。噂が万一事実だとすれば、不祥事情報をコントロールすることで、政治家が立身出世に拘る輩とタイアップしてNHK人事へ介入をしていることになるわけで、これはこれで問題だろう。
政治家など権力を持っている者、企業家など財力を持っている者、官僚など地位力を持っている者たちは、マスメディアの取材に対して、事実を隠したり、虚偽を付け加えたり、嘘を言うことがある。ときにはタメにする発言をして、マスメディアをミスリードさせようとすることもある。記者がそういう陥穽に陥らないようにするためには、裏付け取材をきちんとする、それも複数の情報をクロスチェックすることを怠ってはならない、という基本技を愚直に励行することだ。
3月4日の朝日新聞に次のような記事が載っていた。「訂正して、おわびします」というコーナー。「安倍晋三首相が『民主党は選挙に勝ちたいがために共産党と手を組む。民共合作だ』と述べたというのは誤りでした。これは稲田朋美・自民党政調会長の別の会合での発言でした」という内容です。この訂正記事には誤りの原因の記述がないが、推測するに、政治部の記者が自民党の政治家の誰かに聴いたほかの人の話を裏も取らずに記事を書いているのだろう。信頼すべき人間関係を構築してきた人からの話だったのかどうか。安倍首相が言ったことか稲田政調会長が言ったことか、記者が自分の耳で確認しているなら、こういう間違いは起こらない。
それとも、ネタ元の自民党の政治家の誰かが記者に故意に虚偽の話をしたか、いや、それなら裏付け取材をしなければ、記事に出来ないだろう。善意に解釈すれば、この人がほかの人から聴いた時点で間違ってしまったか、ということか。それでも、裏付け取材は必要だ。そもそも、「民共合作」という揶揄には、中国の「国共合作」が潜められている。「国共合作」とは、中国の国民党と共産党の間に結ばれた協力関係のことである。「合作」という用語自体中国語の「協力関係」の意味である。「国共合作」は、ふたつある。中国の軍閥などに対抗するための第一次合作(1924年から1927年)と抗日戦争(日中戦争)のための第二次合作(1937年から1945年)である。稲田政調会長の発言からは、推測だが、オフレコの別の会合ゆえの気安さからくる本心(中国への反発心)が滲み出ているように思える。
私の取材経験では、被取材者に守秘義務がある場合や記事の信憑性を裏打ちするために確認する場合など、匿名やそのまま記事にしないことを条件に密かに話を聴くときにはメモ帳なし(オフレコも含まれる)で、自分の頭に直接刻むように聴く。取材が終わった後、記憶が薄れないうちに別の場所で必死にメモを復活させる作業をしてきた。当人の前でメモを取るか取らないかは、「取材に答えてどこまで話すか」という相手の心証形成に影響して来るからだ。そうでなければ、相手にメモを取ることの許しを得て、メモ帳ありで聴くなど、相手が本音を言い易いように配慮する。最近では、記者たちはメモ帳とあわせて録音の有無の是非を相手に聞いているだろう。
さらに映像を必要とするテレビ報道であっても、新聞記者同様に、カメラ取材なしで、話を聴くこともある。カメラ取材ありの場合でも、「顔出し」しない、放送では、音声を変えるなど、やはり相手が本音を言い易いように配慮する。顔出しで、実名で、という場合も多い。テレビ報道は、やはり映像付きが売り物だからだ。その代わり、テレビ報道は活字メディアに比べて映像は豊富になるが情報が限定的になるかもしれない、という特性がある。いずれにせよ、要は、情報の受け手である国民の知る権利に正確な情報できちんと伝えることが、マスメディアの最終的な役目である。
今回のタイトルは、「距離感の無い者たちの双方向性」と付けてみたが、これは報道機関に関していちばん大事な権力との距離感を問題にしている。なぜなら、権力の監視こそ、マスメディアの大義だからである。このマスメディアの大義は、国民の知る権利を担保するために、「権力からの自由」によって初めて実現される。「権力からの自由」とは、「権力との距離感」と相関する。「距離感の無い者」の一例が、2年前のコラムで書いたように報道機関側の一つ、NHK会長になった籾井勝人という人物である。
今回取り上げるもう一人は、権力側で、報道機関のうち、放送局の「免許制度」を踏まえて、放送法をいわば「悪用」して「停波」(電波停止。新聞で言えば、「発行停止」。ただし、放送は免許事業、新聞は株式会社の事業だから、大きく違う)を命じる可能性に意図的に言及し続けている高市早苗という人物である。この人物はNHK・民放などの電波行政を所管する総務省担当の総務大臣である。こちらは、国民の知る権利に担保された報道の自由は、国民のために権力を監視することが重要な柱になっている、という公僕(国民のために役立つ人)・政治家なら初歩的で基本的な原理を弁(わきま)えずに、(党派性むき出しで)距離感ゼロの発言を繰り返している。
マスメディア、特に「報道」メディア全体に大きな影響を及ぼす、ふたりの人物が、彼岸此岸の双方向から協調するように(否、ふたりとも確信犯的に協調しているのではないか?)報道機関と権力との距離感をゼロにしようと息を合わせて双方向から発言し合っているのではないか、と感じるのだ。「距離感ゼロ」というのは、下世話に言えば、権力の走狗となるメディア人と権力の介入を目論む政治家との「合体状況」(「癒着」とも言う)のことだ。従って、高市発言の問題性は、きのう、きょう始まった話などではないし、彼女だけの話ではないということだ。権力とマスメディアの間でずうっと続いている歴史的で根源的、原理的に重要な課題だということをまず承知しておいてもらいたい、と思う。
一方、高市発言は、国会で野党側に質問されたので、放送法と電波法の条文を説明しただけだ、という主張があることも承知している。それゆえに、なぜ言葉尻を捕えるようにして大騒ぎするのか、という批判である。ご本人も含めて、そう言っているらしいが、それならば、「条文の文言はこうなっているけれど、放送局の電波停止は、放送局のありようの根幹に関わる処置なので、実際の運用に当っては、放送の自由、報道の自由、表現の自由という民主主義の原理に基づいて、国民の知る権利を担保する自覚のある放送局が自主的に対応をするよう行政指導をすることをまず優先したい」などという説明をすれば宜しいのではなかったのか。それなのに、条文の字面通りの説明を何度も繰り返すことに終始するから、皆に「誤解」されるのではないか。
権力が狙っているのは、マスメディアのうち、免許(許認可)制度という枷がある(さらに、NHKは、国会で予算承認という枷が加わる)テレビを牛耳り、「虚偽報道疑惑」に基づく朝日バッシングに便乗したように、いずれは新聞を牛耳り、政治家などの疑惑報道を続ける週刊誌や出版を牛耳りたいということだろうということなのではないか。全てのメディアとの距離感をゼロにする、ということを彼らは目論んでいるのではないのか。
マスメディアと政権の距離感がゼロになると、どういうことが起こるだろうか。体験した人は思い出して欲しいし、体験していない人は調べて、理解して欲しい。例えば、戦前の日本のような軍事政権と大手新聞、国民との、距離感ゼロの三角関係が現政権には理想なのかもしれない。1931年の満州事変を初め、1937年の支那事変と当時は呼ばれた日中戦争から太平洋戦争(1941年)へと日本が戦線を拡大し、国民を奈落へ向かわせる坂道を転げ落ちて行くとき、治安維持法などで抑圧されていたとはいえ、朝日新聞や毎日新聞(当時は、東京日々新聞。1943年、全国紙としての「毎日新聞」に統合)は、軍事政権の尻馬に乗り、軍隊以上に高らかに進軍喇叭(らっぱ)を吹き鳴らし、国民を煽りたてた。
煽られた国民は、戦果を伝える新聞をむさぼるように読み、提灯行列に加わった。そうして大幅に部数を伸ばし、大手新聞社は莫大な利益を上げた。その利益で、飛行機を導入したりして、広域速報体制、いわゆる報道の機動力を増強させて、軍事政権をさらに鼓舞した。国民も大手新聞に煽られながら、軍事政権の尻を叩いた。読売新聞は、当時は、首都圏のローカル紙で、まだ、全国紙になってはいなかった。
NHK、当時の社団法人日本放送協会は、「大本営放送」と言われるように、報道機関ではなく、大本営の広報機関であった(NHKというコールサインの使用は、戦後、1946年から使用。現在のような特殊法人としてのNHKは1950年、放送法施行にともない発足した)。これが、距離感ゼロのマスメディアと権力と国民の三角関係の実情であろう。三角関係では、いつの間にか、責任のある軸が見えなくなり、無責任の平等化が出現する。こうなった場合、誰も責任を取らないまま、国民の知る権利など獄中の闇に封じ込められてしまう。距離感ゼロとは、主権主体の国民を檻に入れて、マスメディアと権力が癒着する、ということだ。そうなると、国民は、なにも知らされぬまま、ある日突然、「玉音放送」を聴かされ、真実を知る義務と深刻で巨大な負債を背負わされることになりかねない。そういう社会が、わずか70年から80年ほど前の、この国の真実の形だったのである。
先走りすぎたかもしれない。少し、地に脚をつけて、足元を凝視しよう。与党の政治家たちが良く主張する「政治的な公平、中立性」という論調も、権力側に有利と判断しない限り、「不公平、中立的ではない」と、いつまでマスメディアに、いちゃもんをつけて介入したい、というのが真意ではないか、とさえ思う。そういう疑惑の目で高市発言を凝視すると、この人物は総務大臣として発言しているというより、安倍政権を代表して意図的に、確信犯的に、従来許容されていた範囲を一歩踏み出し、世間の反応や空気を読み取る風見鶏の役割をさせられているのではないか、と思われる。政権党を代表しての瀬踏み役の高市発言。
高市発言のポイントのひとつは、電波停止の判断の基準として、従来は、その放送局の番組全体で、「政治的な公平、中立性」のバランスがとれているかどうか判断されるとされていたことが、高市発言では、「一つひとつの番組の集合体が(その放送局の)番組全体なので、一つひとつ(の番組)を見ることも重要だ」と述べて、一つの番組の中で「政治的な公平、中立性」のバランスがとれていない報道(俗にいえば、権力に都合の悪いことを報道するなど)を繰り返したと、所管省庁(権力)が判断すれば、放送局の電波停止もありうる、と繰り返し発言していることである。
「中立性」とは、条文の表現では、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」とある。つまり、一方的な論点ではなく、民主主義的な意思決定に資するように多元的な論点を自主的に自由に提起する、ということだろう。電波停止の影響は、当該番組だけでなく、その放送局全体が被ることになるだろう。報道現場に限らず、営業も含めて番組に関わる現場のすべてが、つまり、放送局の存立そのものに関わるというシビアな認識を、放送人は持つべきではないのか。
危機状況に関する、そういうタイミング感は、私だけではなく、テレビで顔を売っているジャーナリスト、キャスター、アンカーらも同様らしく、6人が2月29日に都内で記者会見をして、「私たちは怒っている」という声明を発表した。会見したジャーナリストは、青木理、大谷昭宏、金平茂紀、岸井成格、田原総一朗、鳥越俊太郎(五十音順)の6人。このほか、会見には、欠席した田勢康弘(テレビ東京系「週刊ニュース新書」の司会役)も呼びかけ人に加わっている、という。会見の映像を視聴したり、新聞記事を読んだりした上で、3月1日付けの朝日新聞などによると、声明は次のような内容(要旨の抜粋)だった、という。
「高市総務相の『電波停止』発言は憲法及び放送法の精神に反している。私たちは一連の発言に驚き、そして怒っている。放送局の電波は、国民のものであって、所管する省庁のものではない。現在のテレビ報道を取り巻く環境が著しく『息苦しさ』を増していないか。『外から』の放送への介入・干渉によってもたらされた『息苦しさ』ならば跳ね返すこともできよう。だが、自主規制、忖度(そんたく)、萎縮が放送現場の『内部から』拡がることになっては、危機は一層深刻である」。
彼らは、テレビ画面の内側、放送現場の空気を肌で感じているから、こういう声明になったのだと思う。
さて、電波停止の前に、権力側が狙っているのは、放送現場の萎縮(シュリンク)だろうから、全ての放送局の全ての番組が、報道の自由に止まらず、表現の自由という基本的人権擁護の主張を国民とともに声をあげなければならないだろうが、これまでのところ現場からの声はほとんど聞こえて来ない。これでは、瀬踏みをする権力の思うつぼで、放送局の現場は、負託された国民の知る権利を放棄しているに等しい。現場が萎縮すれば、それだけ国民の知る権利は抑制されることになる。
権力による放送局への介入の目論みは、放送界だけの問題ではない。マスメディア総体の問題、根源的には国民の知る権利の「抑制」の問題、日本の民主主義の根幹に関わる問題という認識が国民の間に広がるような運動を構築して行くことが大事だと思う。マスメディアの現場で働く人々よ。とにかく、現場で起こっていることを凝視し、それを外に伝える、つまり国民に伝えるために声をあげて欲しい。
それにしても、「アベ政治を許さない」、戦争法案反対で国会周辺に大勢の人々が集まっていた夏のころの安倍内閣の支持率は各社とも40%程度だった。このところの支持率は50%前後ではないか。現状肯定派というか、右傾化というか、10%程度支持率が増えた意味は、なにか。戦争法案反対などで盛り上がった世論を形成した有権者たちは、世論を投票結果として改めて構築し直さなければならない。これまでの行動結果は、それを投票結果として具体的な果実にしない限りイリュージョンに過ぎないからだ。また、結果的に見れば、安倍政権に側面からの「支援効果」を与えているように見えるのが、北朝鮮の「刈り上げ男」の蛮行、つまり核実験や衛星打上げという事実上のミサイル打ち上げ、権力者による邪魔な側近らの粛正などという情報である。情報が不十分なまま、未消化のまま、断片的に伝えられることからくる脅威感が怖い。
初めて選挙権を手にする18歳19歳、20歳の新成人たちは、最初の投票でいきなり、「改憲の是非」を判断しなければならなくなりそうだ。夏の選挙は天下国家の形を決める選挙になるかもしれない。きちんと勉強して投票行動に反映して欲しい。棄権をしないで、限られた条件の中で、ベターと思ったものを選び出して行動を決める、という習慣を身に付けることは今後の人生にも必ず役立つだろう、と思う。いずれにせよ、萎縮したマスメディアの対応も不十分なら、受け手の国民も不勉強なまま、気分で判断しているようなところはないのか。自戒を込めながら、夏までの動きから大事なものを見落とさないように私も努力したい。
筆者敬白:「オルタ」の私の連載コラムは、今号(147号)で丸2年になった。次号から3年目に踏み出す。歳をとると、1日は長く、1年は短いという。
「オルタ」の執筆陣は、私のようなジャーナリストを始めマスメディアの出身者、研究者、専門職などが多いように見受けられる。国際問題、政治問題、経済問題、社会問題、教育問題、医療問題などハードな分野は書き手も多彩だが、私のように前景に映画、演劇、古典芸能(主に歌舞伎・人形浄瑠璃)、絵画などのソフトなものを置き、遠景にある政治問題、社会問題を繋いで遠眼鏡で覗き込むというような書き方はしないと思うので、そこを私のささやかな守備範囲として、今後とも書き続けて行きたい。今号も、政治の現在のグロテスクな状況が、近未来にはもっと重症化するのではないかと危惧するがゆえに、映画「断食芸人」を通してグロテスクな近未来を覗いてみたので、関心のある向きは、コラム「大原雄の『流儀』」にもお立ち寄りください。
(筆者は、ジャーナリスト・日本ペンクラブ理事・元NHK社会部記者・オルタ編集委員)