【本を読む】

高沢英子著『審判の森』を読んで

『審判の森 — ダンテ『饗宴』執筆への日々』 高沢 英子/著  未知谷/刊

武田 尚子


 オルタの同人、高沢英子さんから『審判の森』が送られてきたのは、8月半ばのある日のことだった。この数ヶ月以上、日本語の本に全く触れず、もっぱら英語の解読に時間を費やしていた私には、まるで乾いた喉を潤す清水のような快さで、昼過ぎから読み始めた本を置くことのできないまま、その夜のうちに初読をおえてしまった。私の日本語への渇望が、この本に特別席を与えたのは確かだとしても、的確な言葉の選択、資料の少ない14世紀のイタリアを旅する追放の詩人ダンテを追って羽ばたく想像力、そして語られた人間世界の優しさや怖さの描写は素晴らしい。この労作に、アメリカから武田が、心からの祝杯をあげたことを、まず高沢さんにお伝えしたい。

 著者によると、初出は同人誌『白描』の掲載で37年前のことだという。当時彼女が強い関心を抱いていた『神曲』の詩人ダンテの伝記ということで書き始められたものの『白描』の廃刊その他の事情で一旦擱筆。ようやく完結した『審判の森』が、未知谷から出版されたのが、2015年12月のことである。

 14世紀初頭、詩人ダンテの故郷フィレンツェは、政争に次ぐ政争でもめていた。小さな貴族の家庭で、父親は公証人だったらしいが母親は早く亡くなり、ダンテは12歳の時、妻ジェンマとの縁組を定められ、20歳ごろ結婚している。しかしダンテの心は、幼年時代にかいまみた世にも美しい9歳のベアトリーチェに生涯捧げられていた。
 ダンテの詩才はつとにフィレンツェで広く認められていたが、彼は同時に、市の政治に関わって、幾つかの公の要職を占めていた。ダンテの青年時代を通じて、フィレンツェは教皇派と(神聖ローマ)皇帝派との確執が絶えず、ダンテの属した教皇を押す白派は、黒派ネリーとの争いに敗れ、ダンテはこの街から追放された。(一説では死刑の判決も受けている。)

 『審判の森』では、追放されたダンテが、故郷フィレンツェをあとに流浪の旅に出てから、土地土地の修道院の好意で宿と静謐を与えられ、徐々に詩作への情熱を取り戻し、『神曲』を書き始める。この放浪の旅で生まれた喜びや悲しみ、一貫するベアトリーチェへの愛、さらには神の愛への疑いの瞬間さえも含めて、ダンテの生涯のおそらくは最も重要な時代の心象風景が語られる、異色の伝記である。

 故郷フィレンツェへの愛にかられての政治への関与も野心もついには捨てて、壮大な『神曲』の構想を発展させ肉づけするための人間ドラマは、フィレンツェでの激烈な政争でも、平和な農村に散らばる修道院での明け暮れの中でも、日々登場した。それはダンテにとって、何ものにも代え難い人間洞察の一時期でもあれば、深甚な内省を通しての、新しい自己発見の旅だったようにもみえる。

 『審判の森』は、旧友の画工ジョットーを訪ねて、ダンテの追放後のゆくえを案じていた友と感激の再会をし、彼の仕上げた絵画のえもいわれぬ美しい色彩にあらためて魅せられたダンテが、祝賀の一夜に誘うこの友の申出を断り、書きかけの原稿を入れた包みを背負って、一人の従者もつれず、ゆくえのしれぬ旅をつづけるところで終わっている。

 この先ダンテを受けいれる修道院の存在も、彼自身の運命への展望も知らされないのは、読者もダンテも同じであろう。今は、創造への意欲が、むくむくとダンテの心を動かし始めたにちがいない。やがては「ヨーロッパ文学に突出する最高の文豪は、シェイクスピアとダンテ・アリギエーリのほかにない。三人目は存在しない」とT.S.エリオットの言い切った詩人ダンテに、その不朽の叙事詩『神曲』を完成させるために。

 (米国ジョージア州在住・翻訳家)


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