【コラム】神社の源流を訪ねて(38)

高祖(たかす)神社

栗原 猛

◆ 渡来神、高磯比咩を祭る

 JR筑肥線周船寺(すぜんじ)駅から、大古の空気を吸い込みながら、糸島市の田園地帯を歩いて約30分。「魏志倭人伝」に出てくる「女王国より以北にはとくに一大卒(いちだいそつ)を置き諸国を検察す。諸国之を畏憚(いたん)す。常に伊都国に治す」とある日本古代史の重要なところである。

 周辺には、前1世紀中ごろと推定される三雲王墓ほか、井原、平原遺跡など原始王墓がみられ、南朝鮮系支石墓が多く散在する。高祖神社は、高祖山(416メートル)の西麓に、古代朝鮮式山城と言われる怡土(いと)城跡の一角にあるということから城の鎮守神でもあったようだ。
 祭神は、彦火々出見命、玉依姫命、息長足姫命になっているが、『日本三代実録』では「高礒比咩神(高磯比咩神)」としている。また『筑前国続風土記』も江戸時代まで「高磯比咩(たかすひめ)神社」、「高祖大明神社」と呼ばれたとする。神社で祭神が代わったり新しく加わったりすることはよくあるが、それによって神社の歴史やいわれなども付け足されたり変わり、遡れなくなってしまう。

 高磯比咩は天日槍の妃で、赤留比売、比売許曽(ひめこそ)と同一神で、新羅から先に日本に来て、天日槍が跡を追ってきたとされる。福岡県神社誌には、「当社の創立の起源ははっきりしないが、怡土県(いとのあがた)の鎮土の五十迹手の伝承がある」としている。したがって怡土県主が先祖の高磯比咩を祭ったと考えられる。ただし現在の祭神に入っていないことからこの神を巡っては謎が少なくない。
 古代史家の奥野正男氏は、『日本の神々(第一巻)』で、『筑前国風土記』逸文に怡土県主祖の五十迹手(いとで)は日桙(天日槍)の末裔とあること、日本書紀の渡来系伝承にも「伊都都比古」がいることから同一人物としている。

 高祖山とその山麓の怡土(いと)の平野の古墳からは、鏡、剣、玉をはじめ、多くの前漢鏡、後漢鏡、傍製鏡が出土している。また稲作も伊都国を含む筑紫、北部九州から始まったとされ、高祖山の北東山麓には、古墳時代の製鉄遺跡や前方後円墳も分布している。中国の歴史書、「魏志倭人伝」が、糸島市のこの辺りを弥生時代に栄えた「伊都国」としていることは十分うかがえることだ。

 高祖山の山頂に登って伊都の国を見渡した。視界いっぱいに前方後円墳が広がり、日本最大の国産鏡や中国鏡を副葬した平原遺跡、三雲遺跡、先に行った細石神社、日向峠などが望める。高祖山の南の峯は槵触山(くじふる)、南の谷は日向(ひなた)峠である。古事記が天孫降臨の地とする「韓国に向かう…」とある有名なくだりは、ここから望む風景がふさわしいように思えた。

 注目しなければならないのは高祖神社が、朝鮮式山城の一角にあることだった。7世紀中ごろの朝鮮半島は緊迫して、大和政権と関係が深い百済が、唐と新羅の連合軍に攻め込まれる。そこで天智天皇は663年、百済支援のため大軍を派遣するが白村江の戦いで大敗。大和政権は今度は、新羅と唐が攻めて来るのではないかと恐れ、亡命した百済将軍などの指導で朝鮮式山城をあちこちに築いていく。

 朝鮮式山城は急峻な地形に稜線に沿って鉢巻をするように石塁を築き,城内に倉庫や畑を作って人々が立てこもる。谷間に渓流を確保するのが特徴とされる。この山城は北九州から瀬戸内海沿岸かけて、大野城、基肄(きい)城,金田城(対馬)、屋島城(讃岐)、高安城(大和)など、最近までに30カ所近く確認されている。
 白村江の戦いは古代史の大きな出来事だったことがうかがえるが、半島と接するこの地域は、往古から国際政治の最前線の舞台でもあった。

 (元共同通信編集委員)

(2022.1.20)
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