【コラム】大原雄の『流儀』

高麗屋の襲名(2)

大原 雄


 正月の歌舞伎座。場内は、いつもより華やぎがある。ロビーや観客席には、和服姿の女性も目立つ。本舞台には「祝幕」が掛かっている。幕の下手に、二代目白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎(それぞれ丈江と敬称)襲名披露の高麗屋3人の名前が赤く染め抜かれている。絵柄は、幕の下部に青っぽい海が見える、海岸沿いの松並木。三保の松原か? 背景の空は、夜明けか夕景か、赤っぽい。幕の上手奥に白いシルエットの富士山が描かれている。やはり、夕景か。富士の下手に高麗屋関連の家紋が3つ、寄り添うように並んでいる。高麗屋の四つ花菱、白鸚と幸四郎の浮線蝶(ふせんちょう)、染五郎の三つ銀杏。祝幕は全体として、松並木から富士見という趣き。スポンサーは、三井不動産。

 松の内も、いつもの混雑に加えて、異常な混みよう、であった。歌舞伎座地下の売店の賑わいは、まあ、「正月」のうち、と思えた。歌舞伎座内部に入ると、ロビーの賑わい。開演の30分前の入場なので、ここでの賑わいに異常感はない。場内客席は、ほとんどが指定席なので静謐である。この日は、ほぼ満席の入りと見た。しかし、私は普段は、トイレか、弁当のカスを捨てに行くくらいで、ロビーの売店などにはあまり行かない方だが、今回は、高麗屋の三代同時襲名披露の記念品でも見てみようと、幕間にロビーの売店や廊下に出てみて驚いた。凄い人の波なのである。正月の賑わいに加えて、高麗屋祝祭のムードが盛りあがっている、ということなのだろうか。

 高麗屋の三代同時襲名披露は、史上2回目。37年ぶりの三代同時襲名披露興行である。父・松本幸四郎、息子・市川染五郎、孫・松本金太郎の三世代が、「出世魚」のように、新しい名跡に名を変えてゆく。幸四郎は、二代目松本白鸚に、染五郎は、十代目松本幸四郎に、金太郎は八代目市川染五郎に、18年1月の舞台から、それぞれ名前を変えたのだ。37年前より、それぞれ、「代目」を一つ増やす。

 今年の正月、歌舞伎座は、向こう3年は続く、高麗屋の三代同時襲名披露興行の開始月なのだ。檜舞台での正式な襲名披露は、18年1月から2月にかけて、歌舞伎座を2ヶ月独占して興行が続けられる。それほど、高麗屋は、現在の歌舞伎界の屋台骨を背負っている大名跡の一つということだろう、と思う。以後、高麗屋の襲名披露興行は、1年をかけて全国の主要な劇場、京都の南座、大阪松竹座、名古屋の御園座、福岡の博多座で巡演される予定だろう。そして、さらに19年から20年(オリンピックイヤー)は、通常なら全国を3つのコースに分けている「巡業コース」でも順次、襲名披露をすることになるのではないか。つまり、18年から20年まで3年がかりで高麗屋襲名披露興行、いわゆる「御当地初御目見得」という舞台が各地で続くことになる、と思われる。

★二人の松王丸 白鸚対幸四郎

 18年1月歌舞伎座(昼/「箱根霊験誓仇討」「七福神」「菅原伝授手習鑑 ~車引、寺子屋」)。このうち、歌舞伎座の襲名披露演目は、昼の部は、「菅原伝授手習鑑」のうち、「車引」「寺子屋」で、十代目幸四郎、二代目白鸚が演じる二人の松王丸であろう。見どころは、「車引」「寺子屋」で、十代目幸四郎、二代目白鸚が演じる二人の松王丸の違いをどう見るかである。親子とはいえ、歌舞伎役者としては、互いにライバル、という二人。

 「車引」は、いわば、グラビア写真。今回で、14回目の拝見。菅丞相派の梅王丸(勘九郎)、松王丸(幸四郎)、桜丸(七之助)の3兄弟と、政敵・菅丞相を追放して我が世の春を謳歌している藤原時平(彌十郎)との対決、という一場面が、「車引」。歌舞伎の魅力のエッセンスを結晶させたような、様式美を強調して一枚の錦絵のような場面が出現する。まあ、ここは、それだけでも名場面となる。

 梅王丸が、花道から登場し、上手揚げ幕から登場した桜丸と舞台中央で落ち合い、居所を入れ替わり、深編み笠を取って同時に顔を見せる。「片寄れ、片寄れ」と、藤原時平一行の先触れの金棒引(亀鶴)が上手から現れる。先触れの情報から、藤原時平の吉田神社参籠を知る二人。慌てて花道から吉田神社社頭へ急ぐことになる。ここで、舞台背景の塀が左右に開き、場面展開。吉田神社社頭の場面へ。再び花道から現れた二人は本舞台へ。

 「車引」は、左遷が決まった右大臣・菅原道真の臣の梅王丸と弟の桜丸が、左大臣・藤原時平の吉田神社参籠を知り、時平の乗った牛車を停めるという、ストーリーらしいストーリーもない、何と言うこともない場面の芝居だ。しかし、この演目は、曽我ものの「対面」などという演目と同じで、歌舞伎の持つ色彩感覚、洗練された様式美など、目で見て愉しい。大らかな歌舞伎味たっぷりの上等な芝居である。若々しい役者たちによる「動く錦絵」のような、視覚的に華やかな舞台。そのシンプルさが、人気の秘密。上演頻度も高い。

 花形役者たちの演技も、もっぱら顔見世。若いだけあって、皆、テキパキしていた。染五郎は、十代目幸四郎を襲名することで、今後はこれまでの花形役者から中堅の役者へと脱皮することだろう。そういう意味で、「車引」の松王丸を演じるのは、幸四郎への「昇格」襲名の披露としては、演目的には物足りないかもしれない。むしろ、染五郎を息子の金太郎に譲った、惜別の興行のような気がする。それと合わせて、父親の九代目幸四郎に二代目白鸚として「寺子屋」の松王丸を演じさせて、華をもたせた、ということか。そういう意味では、「車引」の松王丸は、「寺子屋」の松王丸と一対になったものとして評価しなければならないかもしれない。
 いずれにせよ、「花」は、世阿弥の言う「時分の花」のこと。年齢、実力、華やぎなど、ピカピカしている状態。花形役者は、若手の幹部。染五郎という名跡は、花形クラス。幸四郎という名跡は、中堅からベテランクラス、ということになるから、やはり、幸四郎襲名披露というより、染五郎惜別の舞台だったかもしれない。いずれ、内面も含めて、十代目幸四郎が滲み出てくる日が来るだろう。

 では、二代目白鸚の「寺子屋」松王丸の舞台を観てみよう。
 今回の主な配役は、松王丸:二代目白鸚。千代:魁春。源蔵:梅玉。戸浪:雀右衛門。園生の前:藤十郎。玄蕃:左團次。

 歌舞伎の時代物の古典で、上演頻度が高い「寺子屋」。私は、23回目の拝見。初代吉右衛門が得意とした演目であることから「寺子屋」というと、当代でも吉右衛門の舞台が目に浮かぶ。源蔵と松王丸。どっちが難しいか。この芝居は、子どもの無い夫婦(源蔵と戸浪)が、子どものある夫婦(松王丸と千代)の差し出す他人の子どもを大人の都合のために殺さなければならない、という苦渋がテーマ。松王丸と千代の夫婦と源蔵と戸浪の夫婦が、芝居の両輪をなす。ふた組の夫婦の間で、ものごとは、展開する。「寺子屋」は、「子殺し」に拘わるふた組のグロテスクな夫婦の物語なのである。

 1組目の夫婦は、武部源蔵・戸浪である。匿っている菅丞相の息子・秀才の首を藤原時平方へ差し出すよう迫られている。なぜか、ちょうど、「この日」、母親に連れられて、新たに入学して来た子供(実は、松王丸の息子・小太郎)がいる。この子は、野育ちの村の子とは違って、品が有る。この子を秀才の身替わりに殺して、首を権力者に差し出そうかと、源蔵は、苦渋の選択を迫られているのである。妻の戸浪に話すと、「鬼になって」そうしろと言う。悩んだ挙げ句、「生き顔と死に顔は、顔付きが変わるから、贋首を出しても大丈夫かも知れない」、「一か、八か」(ばれたら、己も死ねば良い)と、他人(ひと)の子供を殺そうと決意する源蔵夫婦は、「悩む人たち」では有るが、実際に、小太郎殺しを実行する直接の下手人であり、まさに、鬼のような、グロテスクな夫婦ではないか。

 2組目の夫婦は、松王丸・千代。もうひと組のグロテスクな夫婦として、二人は登場する。先に子どもを連れて、入学して来た母親(千代)とその夫だ。夫は、秀才の首実検役として、藤原時平の手下・春藤玄蕃とともに、寺子屋を訪ねて来る松王丸である。

 実は、源蔵の「心中」を除けば、物語の展開の行く末のありようを「承知」しているのは、松王丸で、彼が、妻と計らって、自分の息子・小太郎を源蔵に、殺させようと企んでいる。千代は、息子の死後の装束を文机のなかに、用意して、入学していたし、松王丸も、春藤玄蕃の手前、源蔵に対して、「生き顔と死に顔は、相好(そうごう、顔付き、表情)が変わるからと、贋首を出したりするな」などと、さんざん脅しを掛けながら、実は、贋首提出に向けて、密かな「助言」(メッセージ)を送っている。

 源蔵の方が、屈折度が高いのか、恩人のために確信犯的に我が子を犠牲にする松王丸の方が、屈折度が高いのか。その辺りに、源蔵役者のやりがいがあるかもしれないし、初代吉右衛門は、そこに気がつき、源蔵を演じる場合の、役づくりの工夫を重ねていたかもしれない。初代は、戦後だけでも、松王丸を5回演じ、源蔵を4回演じた。二代目吉右衛門も、初代に劣らず役づくりに工夫する人で、松王丸を10回演じ、源蔵を9回演じている。

 今回は、幸四郎が松王丸を演じ、梅玉が源蔵を演じる。二代目白鸚は、幸四郎時代に松王丸を演じたのは、12回。通算13回目の今回は、白鸚としては、初舞台だ。このうち、私は今回を含めて8回目の拝見となる。幸四郎の時代物の特徴は科白廻しが、サインペンで書いたような感じで、隅々までくっきりとしているということだろう。所作では、園生の前を笛で呼び出す場面で玄関の外を出て客席に後ろ姿を見せ、背に廻した刀を横にしてポーズをとる場面が、ややオーバーアクション。これが、吉右衛門になると無用な肩の力を抜いているから鉛筆で書いたような柔らかさがある。科白廻しも独特の味がある。兄弟ながら、この科白廻しの持ち味の差は、それぞれとはいえ、大きなものがある。

 幕切れに近い場面。平舞台下手から順に、小太郎の遺体を入れた駕篭、白無垢の喪服姿の松王丸夫妻(白鸚、魁春)、二重舞台の上に園生の前(藤十郎)と若君・菅秀才、平舞台上手に源蔵夫妻(梅玉、雀右衛門)。引張りの見得で皆々静止したところへ、上手から定式幕が悲しみを覆い隠すように被さって来る。

 今回の「車引」が十代目幸四郎を軸にした花形役者の顔見世なら、「寺子屋」は、二代目白鸚を軸とした中堅実力派ベテラン役者の顔見世であった。白鸚対幸四郎の藝比べ。今回の舞台では、まだまだ、白鸚の方が一枚上という印象であった。観客も正直で、白鸚への熱い拍手が印象に残った。

★襲名披露演目は、「勧進帳」

 18年1月歌舞伎座(夜/「双蝶々曲輪日記 ~角力場」「口上」「勧進帳」「相生獅子」・「三人形」)。このうち、夜の部の襲名披露演目は、「勧進帳」のみ。それに触れる前に、まず、襲名披露興行のハイライト、「口上」から記録しておこうか。

 祝幕が定式幕同様に下手から上手へとゆっくり開いた。本舞台いっぱいの襖には、青い波模様の地に千鳥が飛んでいる。中央に四つ花菱、上手に浮線蝶、下手に三つ銀杏の紋。「口上」では、間口(横幅)27.6メートル(91尺)の歌舞伎座の広い本舞台に22人の幹部役者が並んだ。ピンク、グリーン、クリームなども混じって、色とりどりの肩衣袴の裃姿。胸高な袴、頭に紫の帽子をつけた女形姿は、4人。後は、野郎頭の鬘が並ぶ。このうち、高麗屋の3人と高島屋・市川左團次の4人が、鉞(まさかり)の髷、という市川團十郎宗家独特のスタイル。いずれも柿色の肩衣袴の裃姿。ずらりと並んだ壮観な眺めに場内からどよめきが起き、喝采が暫く続いた。

 中央に歌舞伎役者の最長老・坂田藤十郎が陣取る。その下手に、今回襲名披露をする高麗屋三代が並ぶ。藤十郎の下手から順に、幸四郎、改め白鸚、染五郎、改め幸四郎、金太郎、改め染五郎と列座する。藤十郎が口上の総指揮を執る。「あけましておめでとうございます。坂田藤十郎にございます。かくも賑々しくご来場を賜り、厚く厚く御礼を申し上げる次第でござりまする」と、新年の挨拶をした後、藤十郎は、高麗屋3人の襲名披露の基本情報を懐から取り出した紙を見ながら、ゆっくり、きっちりと紹介する。藤十郎から上手の役者へ、順番にいよいよ口上が始まる。

 以下は、観客席で私が聞き取った範囲、さらにメモが取れた範囲で、役者衆の口上の内容を記録しておく。だいぶ抜けているだろう。

魁春は、「高麗屋さんには世話になった。高麗屋さんの繁栄を祈りたい」。
歌六は、「37年ぶりに、再び、三代同時襲名をすることにお祝いの意を表したい」。
扇雀は、「高麗屋一門の今後の隆盛を祈りたい」。
愛之助は、「新・幸四郎さんとは同世代」。
それぞれのエピソードなどを紹介する。
七之助は、「心よりお祝い申し上げる次第でございまする」。
孝太郎は、「高麗屋さんには、お世話になった。新・幸四郎さんの妹の松たか子さんとは、映画で夫婦役を演じたことがある」。
又五郎は、襲名への祝意を述べた。
左團次は、「市川、左團次でございます」と、大声を張り上げただけで、場内の笑いを誘っている。「高麗屋の皆さんが壮健で、襲名を迎えることができた。まことに喜ばしい。歌舞伎や踊りの稽古を一緒にした」この後の、私のメモの字が読みにくくて、判読不明。「壮健で、襲名」というのは、簡単にできるものではない。

 そして、上手最左翼は、吉右衛門である。吉右衛門は、二代目白鸚の弟であり、十代目幸四郎の叔父である。
「(今月は)夜の部で、『勧進帳』の富樫を演じる。高麗屋一門の繁栄を祈念する」。

 吉右衛門の口上が終わると、順番は、下手に飛ぶ。下手最右翼は、梅玉、上手へ順に口上が続く。

梅玉は、「幸四郎さんこと、二代目白鸚さんは、1,100回以上も『勧進帳』の弁慶を演じたが、私は、幸四郎さんの弁慶を相手に、富樫や義経を485回も勤めた。新・幸四郎さんの歌舞伎にかける精神には感心する。新・染五郎さんは10年前、2歳の初舞台もお付き合いした」。
東蔵は、新・幸四郎の子どもの頃の年賀はがきのエピソードを紹介して、高麗屋への祝意を述べた。新・染五郎は、大きな役者になるだろう。新・白鸚は、ずうっと、歌舞伎界の「級長」のような存在だったなどと、それぞれの人となりを紹介した。「級長」という辺りに人間国宝・東蔵のベテランぶりが滲む、というものだ。

鴈治郎は、「新・幸四郎さんは、何が出てくるかわからない、という魅力がある」。
彌十郎は、「新・白鸚さんは大恩人。新・幸四郎さんは、一緒に精進してきた。新・染五郎さんは、芝居大好き。私も歌舞伎役者としては、大柄な方だが、染五郎さんは、今、身長もぐんぐん伸びている。大きな役者になるだろう」。
高麗蔵は、「高麗屋一門の仲間として、祝意を申し上げる」。
勘九郎は、三代同時襲名への祝意を伝えた。中村屋兄弟の口上は、なぜか、控えめだった。
芝翫は、「新・幸四郎さんとは、子供の頃から知り合い。今後の活躍を期待したい」。
雀右衛門は、祝意を伝える。
秀太郎は、高麗屋三代同時襲名に祝意を述べる。

 口上に列座する役者衆の顔ぶれを見れば、当然澤瀉屋の猿之助がいてしかるべきだろうに、猿之助の姿が、見えないのが寂しい。「寺子屋」では、涎くりの与太郎という、滑稽なちょい役のみの出演だった。

 いよいよ高麗屋の口上である。幸四郎、改め白鸚、染五郎、改め幸四郎、金太郎、改め染五郎。藤十郎の紹介を改めて受けた二代目白鸚がまず名乗りを上げる。「3人そろってのご披露がこのように再び盛大に行われますこと、私はもとより、泉下の父もさぞ喜んでいることと存じます。これもひとえにご列座の皆様、関係各位、とりわけ客席のいずれも様方のご贔屓の賜物と厚く厚く御礼を申し上げまする次第に存じまする」と、ゆっくりとした調子で観客席の隅々まで見渡しながら礼を述べた。

 ついで、十代目幸四郎は歌舞伎座百三十年という節目を控えての襲名披露に感謝し、「私、まだ藝道未熟、不鍛錬ではございまするが、自分の勤めております歌舞伎が、歌舞伎のための力となることを信じまして、天に向かって舞台に立ち続ける所存にござりまする」と力強く述べた。八代目染五郎は「『勧進帳』の義経という身に余る大役を勤められますること、この上ない喜びにござります。この後はなおいっそう芸道に精進いたしまする」と述べた。3人ともが観客にご贔屓、ご支援を願って訴え、場内から熱い拍手を浴びていた。最後に、藤十郎が仕切り終わって、22人の口上は全て終わる。全員で、観客席の上手、下手、正面に視線を巡らしてお辞儀をして終了。これで、25分。

★「勧進帳」、幸四郎と染五郎対吉右衛門

 「何のために歌舞伎役者になったかといえば、弁慶への憧れがあったから」と染五郎時代の幸四郎は語っていた。私が「勧進帳」を観るのは、数えてみたら、今回が29回目となる。私がこれまで観た主な配役を記録しておこう。
 弁慶:幸四郎時代を含め二代目白鸚(8)、團十郎(7)、吉右衛門(5)、海老蔵(3)、染五郎時代を含め十代目幸四郎(今回含め、2)、三代目猿之助、八十助時代の三津五郎、辰之助、改め松緑、仁左衛門。
 冨樫:菊五郎(7)、富十郎(3)、梅玉(3)、幸四郎時代の二代目白鸚(2)、勘九郎時代含め勘三郎(2)、吉右衛門(2)、團十郎(2)、新之助、改めとその後の海老蔵(2)、三代目猿之助、松緑、愛之助、菊之助、染五郎時代の幸四郎、そして今回は、吉右衛門。
 義経:梅玉(6)、先代の雀右衛門(3)、染五郎時代の幸四郎(3)、藤十郎(3)、菊五郎(2)、福助(2)、先代の芝翫(2)、富十郎、玉三郎、勘三郎、孝太郎、芝雀時代の雀右衛門、吉右衛門、松緑、そして今回は、金太郎、改め八代目染五郎。

 14年11月歌舞伎座、夜の部。染五郎が初めて「勧進帳」の弁慶に挑戦した。以来、今回が2回目。18年1月8日に45歳になった染五郎、改め十代目幸四郎。75歳になる父親、九代目幸四郎の勧進帳の「弁慶千回以上出演」に向けてスタートしたことになると良いのだが、計算上は向こう30年で、後950回(1ヶ月25回、今月の千秋楽で、合計50回)を演じなければならない。1年に1興行を上演しても、30年では、750回。さらに200回は、年に2興行上演する必要がある。8年はかかる。いかに、「弁慶千回以上出演」という記録が、大変なものか判る、ということだろう。十代目幸四郎曰く、弁慶は、幼い頃からの憧れの役だったという。是非とも精進してほしい。

 染五郎、改め幸四郎の何が、弁慶を演じることを阻害していたかというと科白廻しだろう。團十郎が若いころから口跡の悪さに苦しんできたことは良く知られている。肚声を出せない、声が口腔内で籠るというハンディキャップを克服しようとした。晩年は、若いころに比べて大分改善されてきたが、やはり、クリアな発声が出来る役者に比べると聴きにくいことがあった、と思う。それでも、團十郎は、1968(43)年5月、大阪新歌舞伎座で、21歳の新之助時代(新之助、辰之助、菊之助の、いわゆる「三之助」時代であった。この舞台では、新之助の弁慶、辰之助の富樫、菊之助の義経)から弁慶を演じ始めた。
 以来、三之助ブームにも便乗して、海老蔵、辰之助に混じって吉右衛門も入り、3役日替り交替という演出で3回演じている。その後は、十二代目團十郎襲名を挟んで、普通の演出できちんと弁慶を演じてきた。本興行で、30数興行は舞台に立った筈だ。役者は、1興行25日の舞台で命を懸けて「研鑚」もするものだろう。

 染五郎、改め幸四郎は、横隔膜を使う肚声が出せなくて、喉に頼る、いわゆる喉声になってしまう、という。肚声は豊かで、通りも良く、遠くまで広がって、響いて行く。これに対して、喉声は、通りが悪く、響いて行かない。しかし、苦労の果てに弁慶初役のチャンスを掴んだ染五郎よ。先人・十二代目團十郎の歩んだ道を追いかけて行けば良いのではないか。

 それだけに、今回、私は幸四郎の「弁慶声」に最大の関心を寄せて、舞台を拝見、いや拝聴した。どうであったか。前回と違って、結果的には、幸四郎の声は、3階席にも響いてきた。一所懸命、声を振り上げているのが判る。叔父・吉右衛門の富樫が、それを静かに受け止める。
 しかし、吉右衛門の富樫とのやりとりで、気がついたことは、吉右衛門の科白廻しは調子に起伏があり、快く聞こえてくる。それに対して、幸四郎の科白廻しは調子がフラットで、起伏がない、ということであった。新しい幸四郎の弁慶が、高麗屋代々の弁慶らしく育って行くためには、まだまだ課題があるだろうが、十代目幸四郎が、十代目を取り払ってでも、幸四郎の列に連なって行くのを今後とも、同時代人として同伴して舞台を観て行きたいと思う。

 染五郎の弁慶は、声の課題を除けば、所作、静止ポーズとも無難であった。弁慶千回役者の九代目幸四郎は、「息子の染五郎に弁慶をやらせることが父親としての夢だった」という。今回2回目の「夢が叶」ったというわけだが、今後は、新・幸四郎は高麗屋一門の軸とならなければならない。その一つのメルクマールが、高麗屋代々の弁慶像に近づくことである。父親・二代目白鸚の指導を受けて精進に励み、観客の期待に応えて欲しい。口跡問題は、今後も苦しむ時があるかもしれないが、目の前には、九代目幸四郎と共に十二代目團十郎というふたりの先人の軌跡もある。まずは、そこをきちんと歩み続けることが必要だろう。

 12年10月新橋演舞場の舞台を思い出す。九代目幸四郎と今は亡き團十郎が、昼夜で弁慶役を替えて、「競演」するという試みがあった。で、私が感じたことは、幸四郎の弁慶は、先人たちの藝を引き継ごうと、いわば「実線」で丁寧に絵を描いているということだと思った。科白廻し、所作、静止ポーズに神経を使っているのが判る。
 一方、團十郎の弁慶は、この人、生来の口跡の悪さもあり、細かなところまで丁寧に描写するというより、弁慶という人間を丸掴みして、その存在感そのものを再現することに力を注いでいるように思えた。弁慶の衣装は、幸四郎も團十郎も同じに見えたが、富樫の衣装は、幸四郎と團十郎では、衣装に描かれた鶴の紋様が大分違う。

 「勧進帳」は、安宅の関の関守という地方役人の富樫と主従で偽山伏に身をやつして逃避行をしている義経一行(ただし、逃避行実践の部隊長は弁慶)の闘いである。

 偽山伏を検問する際の山伏問答がおもしろい。

富樫:山伏は、なぜ、「武装」しているのか。
弁慶:山道を踏み開き、害獣や毒蛇を退治する。難行苦行で悪霊亡霊を成仏させる。
富樫:「兜巾(ときん)」を付けている訳は。
弁慶:「兜巾」と「篠掛(すずかけ)」は、武士の甲冑と同じ。腰に利剣、手に金剛杖。
富樫:(そういう)山伏の出で立ちは?
弁慶:不動明王のお姿をかたどっている。

 丁々発止の果てに、富樫は偽山伏の一行が義経一行だと確信するが、弁慶の主従優先の男気を意に感じ、逃避行を許す、という芝居である。「勧進帳」は、良くできた演目で、奥が深い。名曲、名舞踊、名ドラマ、と芝居のエキスの全てが揃っている。さらに、配役の妙味が、勧進帳の味を拡げる。それぞれの趣向で、役者が適役ぞろいとなれば、何度観てもあきないのは、当然だろう。舞踊劇ゆえ、開幕は緞帳が上がり、閉幕は、定式幕が上手から閉まってくる。そして、義経一行が逃避し尽くした後、弁慶の幕外の引っ込み。「飛び六方」という独特の、いわば「走り方」で終演になる。

 (ジャーナリスト(元NHK社会部記者)、日本ペンクラブ理事、オルタ編集委員)

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