【コラム】神社の源流を訪ねて(47)
2つの那須加美乃金子神社(なすかみのかなこじんじゃ)
◆渡来神と記紀神話の神の軋轢
対馬には同名の神社も多く那須加美乃金子神社も2社ある。まず対馬の北東部にある上対馬の小鹿を訪れた。道路に沿っているが木立に覆われて、鳥居と歴史のありそうな石灯籠が目に入らなければ通り過ぎてしまうところだった。
小鹿(おが)の地名は、神功皇后が朝鮮半島に渡るために対馬に寄った際、住民たちが鹿を御馳走したという伝承がある。境内に立つ鳥居の扁額に「那須加美乃金子神社」、鳥居の脇には「延喜式内 明神小社 那須加美乃金子神社」と刻まれている。白い砂利が敷かれたやや細い参道の奥の拝殿は、サッシのガラス戸の民家風で親しみが感じられる。祭神は大屋彦神と大己貴命だ。
もう一つは小鹿の南の上対馬志多賀にある。鳥居には「金子神社」と、「那須加美乃金子神社」の扁額がかかっている。志多賀の拝殿もサッシのガラス戸で、拝殿の後ろの木々の間にこじんまりした本殿がみえる。祭神は素戔嗚命でともに出雲の神々である。
式内社調査報告書によると、周辺には弥生遺跡や古墳などがあり、祭祀に使われた大型の勾玉と十三本の青銅矛は「神社に建物がなかった時代から伝えられている」というから貴重なものだろう。 祭神の素戔嗚命については「八十木種(多くの木の種)を持ち韓国曽尸茂梨(そしもり)に往(ユ)き その地に植えさせたまわずにこの山に植えたまう」とあり、日本書紀にも似た記述がみえる。対馬には素戔嗚命や神功皇后の伝承地などが多いが、比較的新しい時代のものと言われる。中央の政治力が固まるにつれ、有力な神にあやかろうという空気が生まれたのではないか。
小鹿と志多賀の間に、「神山」(334、4㍍)と呼ばれる霊山がある。次の日程が迫っていてここには行けなかったが、山中に金属を思わせる「かなご(金子」「かなくら」などの磐境(いわさか)がある。磐境は神社が作られる前の祭祀の形式だから、かなり古いものだろう。この磐境と、麓にある藩政時代に作られたとされる那阻師(なそし)神社は、本殿と拝殿の関係にあったとみられている。那祖師神社は藩政時代に作られ比較的新しい。「かなご」などの磐境は、小鹿の那祖師神社にも合祀され、「那須加美乃金子神社(那須神)」と「那祖師」は3社祭祀形態となり、同一の存在とみられてきた。「対馬の神道」の著者、鈴木棠三氏も紹介している。
これに対して式内社報告書では、「那須加美乃金子神社の神と、この二神(大屋彦神、大己貴命)は違うのではないか」と疑問を投げている。「神社大帳」も「かなご」について、「神体社等無之。由緒不知」、「非日本之神、新羅之人乎」としている。日本の神ではなく新羅の神ではないかと言っている。「かなご」、かなくら」は、鉄生産にも関係するが、想像をたくましくすれば、この山で鉄の採掘などに携わる新羅からの人々が、この磐境を崇敬していたとも考えられる。新羅はもともと鉄生産が盛んで、朝鮮半島を最初に統一したのも優れた製鉄技術を持っていたからだとされる。
また製鉄は樹木を大量に使う。素戔嗚命と五十猛が樹木種を新羅に植えないで、日本に持って来て植えたという話や、素戔嗚命が自分の鬚髯から杉、胸毛から桧などを生んだという神話も鉄や樹木へのかかわりがうかがえる。
こうした記紀の主人公の活躍が、素戔嗚命や神功皇后などに関係ずけられて行くと、対馬固有の神々や渡来の神々から反発も出たのではないか。 対馬神社誌に「毎年1月24日を祭日として神ろぎ、磐境を村民遙拝すと雖も祭日必ず風波の災あり」との記述があるが、どこか示唆的だ。渡来の神の怒りは、先祖の神に対する崇敬を忘れたのかと怒っているように思える。人々は「神託にしたがって社殿を建てて勧請した」といわれるが、神の怒りはその後、どうなったのか知りたいところである。
(2022.10.20)
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