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120年前、新宿に女性の「写真学校」があった!
1904(明治37)年1月刊の「新撰東京名所図会<牛込区の部>」をめくるうちに、「女子写真学院」なる項目が眼に入った。
「女子写真学院は(新宿区)西五軒町五十二番地にあり、明治35(1902)年創立。女子の智徳を涵養し、その特性に最も適切にして優美の芸術たる写真技術並に女子に必要なる学科及び技芸を教授し、内に在りては良妻賢母たり、外に処しては国家の文明を裨益する技術家を養成するを以て目的とす。術科を分ちて、本科、研究科、速成科、随意科、土曜日曜科及び院外科となす。監督鈴木真一、主幹河村勇吉、顧問講師春日定夫、教師矢田鋭子。」
「鈴木真一」を調べると、1835-1918、静岡県伊豆出身の幕末、明治期の写真家とあった。我が国初期に写真を広めた下田出身の下岡蓮杖(1823-1914)とはほぼ同郷の関係からか、下岡の横浜にある写真館に弟子入りし、写真術を学ぶ。第1回内国勧業博覧会(77年)に皇族の肖像写真を出品して受賞している。60代後半にこの写真学校を創立したことになる。ただ別の記録によると、「女子写真伝習所」の名称だった、ともある。
春日定夫(1856-1926)は鈴木の弟子で、日清戦争で戦地を撮影。六桜社(小西屋六兵衛創業、のちの小西六、コニカ前身)の写真技師となり、小西六写真専門学校創立に関わり同校理事、学生監となる。河村勇吉(雄治、勇次の表記も)は鈴木真一、小川一真の両写真館で研鑽し、鈴木の高弟とも言われる。矢田鋭子についてはわかっていない。
ちなみに、写真関係を商う小西屋六兵衛店(1873=明治6年創業、のち小西六、コニカ名を経て現コニカミノルタKK)は1902(同35)年、新宿区淀橋(現西新宿)に工場「六桜社」を設立、ここで約60年間写真界をリードし続けた。また1923(大正12)年に小西写真専門学校(のち東京写真学校、東京写真大学の名称を経て現東京工芸大学)を開校した。そうした関係から、新宿中央公園には「写真工業発祥の地」の記念碑が建てられ、「六桜社跡」の碑がある。女性の写真学校との直接の関わりはないが、新宿と写真の関わりとしては何となく面白い。
女子美術学校との関わり 男子のみ受け入れの東京美術学校(現東京芸術大学)に対抗する形で、女子美術学校が創立されたのは1900(明治33)年のこと。横井玉子(1855‐1903)、彫刻家で東京美術学校教授だった藤田文蔵ら4人が発起人で、初代校長は藤田が就任。横井は女学校の教師から後に東京師範学校の教授になり、水彩画、油絵を学んでいた。彼女の夫横井左平太は、幕末の思想家横井小楠の甥で、その養子になった人物。小楠の妻の妹には女子学院創立者で初代院長である矢島楫子がいて、彼女は女子美創立時に協議員として支援していた。
女子美術学校は日本画・西洋画・彫塑・蒔絵・刺繡・造花・編み物・裁縫の8科でスタートしたが、玉子はさらに「写真科」を創ろうとしていたようだ。しかし、玉子は創立のころから胃がんで体調を崩し、写真科創設の思いは果たせなかった。
構想された写真科には鈴木真一、河村勇吉らを招いたものの、「来る何日より教授すると宣言した所が、元来財政上に就て内訌を起した同校(女子美術学校)の事であるから器械と原料とを購入せぬのみか、撮影場さへ設けぬ始末に写真術研究希望の特志生は・・・いたく失望落胆の余り立腹して退学した者も多かった」ということで立ち消えになった。
こうした動きの中で、関わりのあった鈴木らが「女子写真学院」(あるいは女子写真伝習所)を設立したものと思われる。
女子美術学校の「内訌」というのは、発起人4人のうち2人が造反して、別の東京女子美術学校設立に動いたもので、この学校の構想には玉子の主張した「写真科」の設立が盛り込まれていたが、この学校自体が実ることはなかった。この経緯は「女子職業案内」(落合浪雄著・1903年)、「女子美術大学百年史」(2003年)に詳しい。
当時の女性写真師の人気 当時の「婦人と子ども」という書には「女子写真学院」の紹介が掲載され、「実業的写真技師養成の目的にて、傍ら普通学を授け貧学生の為には特に実務科、随意科等を附設し其の便宜を計るという」(フレーベル会刊)とある。この刊行は1906(明治36)年4月なので、女子学院の発足直後だったのだろう。
また、万朝報(1905=明治38年7月11日付)には「婦人と写真術」として、「写真学校にて1ヶ年修行せし日野水幸子(19/ユキエ説も)の如きは婦人画報社の写真部主任に三十円以上の俸給にて雇われ博文館、春陽堂の如きも写真班は是より婦人技師を採用する方針なりとも聞けば兎も角も女子の職業を得る道に新方面の開けたるは喜ぶべきことなり」とし、写真学院には17、8人の生徒がいて、「女子に写真術を教ふる唯一の学校なるが、今回3名限り貸費生を募集する由」と書かれているので、3年ほどは続いているように思われる。
「万朝報」は4月1日付でも、「写真業の如きは其の大部分を婦女子の手に任せざるべからず」とアピール。当時の「写真月報」誌(第10巻7号)は、その記事を紹介している。
また、博文館の「文藝倶楽部」(1905年9月号)では当時、銀行、会社、官庁、郵便局などで女性の採用が進む時代だったとし、その一環として女子写真学院を紹介している。
先に触れた落合の「女子職業案内」も、当時の女性の進む職業としての写真家の道を高く評価している。
女性写真師誕生は「明治維新」前 女性写真師の学校ができたのは1900年だが、最初の写真師の登場はかなり古く明治維新の前、つまり40年近く前にさかのぼり、群馬県桐生出身の島隆(1823-99/しま・りう)が日本での第1号とされる。彼女は、夫の島霞谷(嘉国とも)が師で、1864年に撮影した夫の写真が残されている。りうは徳川一橋家の祐筆(書記役)だった関係で、同家出身の第14代将軍徳川家茂、当主茂栄に写真術を教える霞谷と結婚している。絵を学んだ霞谷は、写真術を習得、後に大学東校(東大医学部)で活字の鋳造に成功したが早逝した。りうは郷里に霞谷の遺品類を大量に持ち帰り、写場を開いた。
明治初期の女性写真師 明治初期になると、写真術を身に着けた女性たちが各地で写場、つまり写真館を開いている。むしろその多さに驚かされる。写真の人気はすごかったのだ。むしろ、女性向けの養成所の立ち上げが遅かった、というべきかもしれない。ただ、断片的な資料しか残っておらず、詳しいことはわかっていない。
・塙 芳野 1877(明治10)年東京は新富町の守田座そばで開業。歌舞伎役者が扮装のまま裏木戸から写場に入れることで大繁盛。団十郎、菊五郎などに可愛がられた。錦絵、絵草子から写真のプロマイドへと変わる時代だった。師匠は北庭筑波(蘭学も学び、先駆の横山松三郎、下岡蓮杖らに写真術を学び、写真雑誌を刊行し、門人多数を輩出。長崎出身で上野彦馬にも学んで、東都第一と言われた内田九一を継いだとも)。
・新田 とみ 「新井田」ともいわれる。明治10年ころ、やはり新富町で営業した。手札判のカーボン印画を工夫し人気を得た。塙芳野とともに高名だった。
・井上 さと 夫は土佐藩士井上俊三で、彼は医者を志すが、写真に関心が向く。藩主山内容堂に認められて長崎に留学、蘭学を学び上野彦馬に写真術を学ぶ。明治2年郷里に戻り藩の写真方になるも新時代に変わり、高知市要法寺町、次いで農人町に写真館を開く。そのような関係で、妻さとも実地に撮影を学ぶ。その後、商都大阪に出、さとの人気もあって繁盛した。
・和田 ゆき 新潟の和田一族は、家族ぐるみで写真に取り組んだ。第2代和田久四郎は海産物・雑貨商だが、旧幕時代の江戸で薩摩藩士から写真術を学び、写真用品、材料も入手、
明治元年ごろに新潟で写真業を始めた。第3代目久四郎も、写真の将来性を信じてその業を継ぎ、二見朝隈(長野出身。明治4年北庭筑波の門下として学び、銀座に写真館を開き、一流との評価を受ける。朝陽社を興し「写真新報」を創刊。実弟の二見朝陽も北庭の門下で湿板写真の修整法に優れた)に江戸で師事し、その後新潟地方の写真界に貢献した。
ゆきは3代目の長女で、新潟から単身、徒歩で上京、二見朝隈、その養子二見芳之助らの指導を受けて家業を継いだ。また5女のシメも写真師として太平洋戦争終戦まで頑張った。
・三崎 栄 夫の吉兵衛が矢田太郎(舎密学者=せいみ=化学者)に写真術を学び、明治3年に京都で写真館を開く。妻の栄は撮影の傍ら、玩具、人形、装飾品などを製作、妹さとが写真画とともにそれらを米国に輸出した。さとは5回ほど渡米したという。
・三輪 歌 京都三本松の舞妓だったが、父松兵衛が横田朴斎(京都出身。幕末の長崎で上野彦馬に写真術を学ぶ。明治3年大阪通商司で金札写真を調整、その後神戸に写場を開き四つ切写真を出す)に学び、京都で写真業を開いたので、歌は舞妓を辞め、父を手伝う。舞妓の人気も加わり、盛名を博した。
・山本 古登 明治8年ころ東京本所松阪町で開業。鎧、兜、打ちかけなどの衣装を多くそろえて客の好みに応じて撮影して大人気。
・亀谷 とよ 父徳次郎が長崎で唐物商としてオランダ館に出入りして写真に関心を抱き、上野彦馬の高弟になる。17歳の娘とよと京都に出、知恩院境内の写場で営業して参詣や観光客に好評を博した。京都での写真の嚆矢とも。とよは結婚後、朝鮮に渡るが夫を亡くし、父徳次郎もシベリアで死去。晩年は長崎で送った。
・森山 こう こうの義父森山浄夢は西洋人から写真機を買い、これに没頭。明治3年東京青山に野天の写場を設け、その後赤坂に、同13年に新富町に移り写真館を開く。浄夢の子に嫁いだのがこうで、その夫の早逝により、女性写真師として活躍、5代目菊五郎の贔屓とされた。その子宗次郎が後を継いだ。
・浜松屋小花 明治10年ころ芸妓から近くの写真師に習い転進、新橋烏森に開業し、その後南佐久間町(現西新橋)に。明治10年東京曙新聞による。
・中野 巨斗 明治天皇の長野巡幸時に長野師範学校、製糸所の写真を披露した。明治11年長野新聞、同14年信濃毎日新聞などに掲載。
・内田 キヌ 写真師内田幾次郎(不明)の弟子という。18歳で東京浅草寺の境内で開業し、大当たり。明治10年朝野新聞記事
・沢江 親(ちか) 明治初期、東京で知られた。
・柳橋 春 同上。
・牧 勢喜(せき) 一説に、写真師牧一造の妾で、新橋の支店を任されていた。
・新良 桜 吉原に写場を開いた。
・高野 清(きよ) 芝日影町に写場を開いた。
・田口 桜 浅草に写場を開いた。
・原田 とく 大阪南区東横町に明治初年に写場を開いた。明治17年の朝日新聞広告。
・葛城 悦 大阪・本町堺筋東に写場を設けた。
・原田 英 大阪・久宝寺町4に写場を設けた。
・山田 豊 大阪・谷町常盤町行当たりに。上記の3人は地元紙の広告によるという。
・床鶴、勇鶴 京都祇園の芸妓。浅利保正なる京都の元士族の愛妾だが、写真に関心を持つ彼の妻遊幾が二人に写真術を教え、誓願寺境内に写真の店を出させたという。明治10年読売新聞記事。
——当初の女性写真師は色街からの転職や、家族の手伝いから写真師に向かう女性とかが目に付く。また、芝居小屋や歌舞伎などの役者のプロマイド販売、寺社の参詣人目当ての販売などで人気を博している。
男性写真師の写真館の所在地を見ても、東京、横浜、大阪、神戸、長崎など、人口の多いと同時に、幕末維新後の新時代に海外の文化が上陸したような地が多い。ただそれでも、明治初年に小田原、長野、新潟、長岡、新発田、金沢などの地方都市でも写真館が開かれており、当時のブームを思わせる。欧米文化が、鎖国的に温存されてきた日本古来の文化に急激に融合していく社会現象が感じられる。
——以上の記録は、「知られざる日本写真開拓史」(東京都写真美術館編、山川出版社)、「日本写真全集1 写真の幕開け」(小学館)、「日本の写真家101」(飯沢耕太郎編、新書館)、「日本写真史への証言 下」(亀井武編、淡交社)、「写真事件帳」(井上光郎著、朝日ソノラマ)、「幕末・明治の写真」(小沢健志著、ちくま学芸文庫)、「幕末明治 横浜写真館物語」(斎藤多喜夫著、吉川弘文館)、「編集者国木田独歩の時代」(黒岩比佐子著、角川選書)などによる。
上野彦馬、上岡蓮杖の存在 1820-30年代に最古の写真がある、と言われる。日本への写真技術の渡来は1848(嘉永元)年、銀板に画像を焼き付けるダゲレオタイプという方式の器材一式がオランダ船で長崎に持ち込まれた。これは、御用時計師の上野俊之丞の輸入で、薩摩藩の島津斉彬のもとに届けられ、「印影鏡」として研究が始まった。
日本各地への波及は早く、その一因はこの二人のパイオニアが多くの門人に技術を伝授したことによる。「東<横浜>の下岡蓮杖(1823-1914)」と「西<長崎>の上野彦馬(1838-1904)」である。下岡は薩摩藩邸で写真を見て発奮、横浜で米写真家ウイルソンに学び、62年横浜に写真館を開業。また上野は、写真器材を輸入した俊之丞の子で、ペリー来航時に通訳をし、オランダ人医師ポンぺのいる長崎の医学伝習所で化学(舎密セイミ学)、関連ある写真術を学び、さらにフランスの写真家ロシェの手ほどきを受けて、62年に長崎に「上野彦馬撮影局」を開いた。
下岡の門下には、横山松三郎、北庭筑波、江崎礼二、徳田孝吉ら。上野を師とする者は非常に多く、内田九一、北庭筑波、森山浄夢、井上俊三、内田雅治、浦川多三郎、浦田茂次、
大井卜新、亀谷徳次郎、清河武安、膳桂之助、田本研造、富重利平、中村寛太郎、古塚藤吉、堀江鍬次郎、松尾幾三郎、宮崎(芦刈)宇太郎、宮崎長次郎、守田来三、横田朴斎ら。
「東京新繁昌記」(服部誠一著、明治7年)によると、「都下に現今は已(すで)に数十名に及ぶ」とあり、「東京写真見立競」(同9年)の記載によると、写真館は130軒を超えるという。
知名士と写真効果 写真術が日本全国に広がった一因には、旧藩主たちが興味を深めたことがある。旧幕時代に薩摩藩の島津斉彬、尾張藩主松平慶勝、15代将軍徳川慶喜、福岡藩主黒田長溥、小倉藩主小笠原忠忱、姫路藩主長子酒井忠興らが先駆的に写真術を手掛けた。
また、各界の地名士も関わっていた。松本良順(のち順)はオランダ人ポンぺに医学、化学などを学ぶ中で写真にも興味を持ち、上野彦馬や長崎留学の津藩藩士堀江鍬次郎、福岡藩士前田玄造、前田の助手をした写真師内田九一を支援、のちに東京最初の西洋型病院蘭畴院を早稲田に設立、初代陸軍軍医総監を務めている。漂流渡米し、再訪して写真術を身に着けた中浜万次郎、松代藩の博識の蘭学者で、銀板写真法を独学で身に付けたほか、開国派として暗殺された佐久間象山、蘭学を学び、銀板、次いで湿板写真法を独学後、学習院院長、枢密顧問官などを務めた大鳥圭介らもいる。明治も過ぎると、東京写友会結成の尾崎紅葉、日露戦争従軍写真師の田山花袋らがいる。
戦争が写真熱を高めたこともある。明治7(1874)年の台湾出兵時に、東京で写真館を開いていた松崎晋二(横山松三郎門下。同5年小笠原島を撮影、同9年天皇巡幸時の沿道写真を撮影)と熊谷秦(戦地で敵弾に倒れた)が陸軍の要請で、日本初の従軍写真師となった。
同27(1894)年の日清戦争になると、旧津和野藩主を継ぐ亀井茲明が重装備を整えて私的に従軍して撮影し、後にその記録や日記を「日露戦争従軍写真帖―伯爵亀井茲明の日記」に収めた。日露戦争時にはメディアも従軍写真家を戦地に送るようになり、松永学郎が伏見宮博恭王に随伴する写真師として南山の戦闘を撮影。池田霞汀(鶴岡新聞)、江南信国(実業之日本社)、江原熊太郎(二六新報)、岡村月村(神戸新聞)らも活躍した。
<元朝日新聞政治部長>
(2023.8.20)
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