【コラム】落穂拾記(50)

731部隊の生体実験と新宿・国立陸軍病院跡の人骨との関係

羽原 清雅


 生きている人間の極限への対応は、どのようなものなのか。
 杉田玄白、前野良沢らが江戸後期に死体の解剖に挑戦、科学的な進歩に道を開いたように、近代戦争はもう一歩進めて、生きている人間は極限に至ると、どのような反応を見せるか、の検証結果を求めたくなるものなのだろうか。

 道義がどうあれ、知りたい気持ちが抑えられなくなる。それは、わからないでもない。しかし、対象となるのは医者たちと同じ人間である。医師は人命を救う責務があるが、「生命」というものを極めたいという思いもあるのだろう。

 だが通常、同じ人間である以上、「殺害」という行為には抵抗がある。ただ、その思いが緩み、「医学の進歩」という大義のもとにチャンスを生かしたい、という気持ちになる。それが、人間を「もの」として扱う『戦争』という舞台で開花する。

 筆者はこの2月、旧満州を歩き、ハルビンを訪ねて、731部隊への怒りを将来に語り継ぐ新装なった展示館を見た。数年前、旧展示館に出向いてから2度目の訪問だった。

 同時に、筆者が育ち、今もごく近くの新宿区にある、かつての国立陸軍病院(現国立国際医療センター病院)周辺から、傷つけられた人骨多数が発掘された事実を思い起こさざるを得なかった。

 生命を長らえるための医学が、人命を損ねて、研究の発展を求める。倫理観の一方で、人為的に極限に追い込んで生命を奪う行為をどう考えるか。
 「731部隊」の非道はすでに知られたところだが、あらためて整理しておこう。

 ≪731部隊≫ 陸軍の研究機関「関東軍防疫給水部本部」は通称「731部隊」といわれた。「陸軍軍医学校防疫部」のもとに、石井四郎ら軍医による「防疫研究室」が設けられ、ついで1933(昭和8)年、出先のハルビンに「関東軍防疫班」(のち「防疫部」、さらに「関東軍防疫給水部」に昇格)が置かれて研究が始められた。1940(同15)年、ハルビン郊外の平房の地に城塞のような新施設が完成した。勤務する軍人、軍属は3000人を超えた。機密保持のため、厳しい管理が知られていた。その初代隊長が石井軍医中将だった。

 それに先立つノモンハン事件(1939年)では、石井が開発した「石井式濾水器」を出動させたが、すでに細菌兵器を使っていた。ネズミやノミを飼育してペスト、チフス、コレラ、赤痢、梅毒、炭疽菌などを培養・増殖・爆弾散布する生物(細菌)兵器、毒ガスなどの化学兵器などを研究、開発する一方、そうした生体実験を行い、さらに凍傷、ガス壊疽、銃弾貫通、性病などの、生きた人間を使った実験を大がかりに進めていた。そして現実に、中国各地に細菌がばらまかれていたのだ。

 その生体の確保は、反日、ゲリラ、スパイなどの疑いで捕まった者が主な対象で、「マルタ」と呼ばれた。被害の数は不明ながら、数の多い指摘によると3000人に及んだという。被害に遭ったのは満州、中国、ソ連、モンゴル、朝鮮の人々で、いわば満州国建国で謳い上げた「五族協和」の裏の姿だった。

 1945年8月、終戦直前にソ連が参戦したことで、石井らはあわてて生存者の始末、実験の痕跡や証拠の消去隠滅、施設の破壊などに取り掛かるとともに、日本への撤退を急いだ。

 ≪惨状の展示≫ 2015年8月15日にオープンした新たな展示館(侵華日軍第731部隊罪証陳列館)は、解剖などに使われた医療器具、軍用の錆びついた刀剣類、カルテなどの書類、細菌散布用の大型風船の模型や残された機材、取り残された施設などの残骸、手術時や生体実験時の模型、それに判明した犠牲者の氏名、実験に参加したとされる医師60人ほどの氏名と戦後の肩書(東大、京大、阪大、九大、防衛大、国立予防衛生研、北里研、各地の病院長、ミドリ十字など)の掲示パネル、顔写真付きの関係軍人の表示、当時を語った日本人関係者の証言映像など、多彩である。やはり石井四郎の罪状のパネルが目立つ。

 展示館の外には、3本の煙突などの残骸が目立つ。かつては細菌培養のためのネズミ飼育の施設などもあったが、今回は開いてはいなかった。

 問題は、この展示館の狙いが「反日」高揚のためなのか、残虐な非人間的行為への抗議と歴史的反省をとどめるためなのか、である。立場によって捉えようは異なるだろうが、それはヒロシマ・ナガサキの展示館と同じ意味を持つのだろう。
 日本人の来訪者は少ない、という。だが、歴史に学ぶとするなら、ぜひ出かけてもらいたいものだ、と感じた。

 ≪尾を引く731部隊≫ 731部隊の存在は戦後、米国が早く気づき、めったにない生体実験のデータを手に入れようと動いた。その「成果」は、ベトナム戦争などに使われたといわれる。この秘密の作業場の実態について、ソ連は遅れをとることになった。

 また、石井と連携があり、東京で防疫研究室を率いた内藤良一は、日本ブラッドバンク(血液銀行・のちのミドリ十字)を設立、血液を原料に医薬品をつくった。のちにミドリ十字は血液製剤による薬害エイズ事件を引き起している。直接のかかわりはないのだろうが、どこか医学の道に外れたような共通の印象がある。

 戦後の大ニュースとなった帝銀事件の真犯人は、手口からして731部隊の関係者ではないか、という論者もいる。731部隊問題は、許されざる医学的犯罪の要素を持ちながら、解明されることなく、責任も問われることなく免罪化してうやむやになったことが、いつまでも疑惑を残す結果になっている。

 次に触れる新宿・戸山の人骨問題もまた、731がらみを疑われながら、追及のむずかしさもあって、スッキリしないままに決着したことになっている。

 ≪新宿・戸山の人骨問題≫ 筆者の家から近い新宿区戸山に国立国際医療研究センターがある。明治維新直後に、旧徳川尾張藩下屋敷の広大な跡地に、兵部省の軍医寮付属病院が設置され、初代院長は西洋医学を定着させた松本良順(「落穂拾記」の当コラムでも書いたが、父は順天堂病院を開いた佐藤泰然、実弟に日英同盟成立に取り組んだ外相・林菫<ただす>がいた)が務めた。

 この病院はその後、陸軍第一病院となり、戦後は国立東京第一病院と呼ばれ、いまは前述のセンターの病院になった。戦前は近くに陸軍戸山学校が併置され、また石井と因縁の深い陸軍軍医学校や防疫研究室があったのもこの地である。今はエイズなどを研究する中枢機関である。かつては寿産院事件の被害幼児、第5福竜丸の被害者、横井庄一、小野田寛郎といった戦地残留の猛者が入院、また人間ドックが初めて開設されるなど、社会面に登場することも多い病院である。

 1989年7月、この周辺の国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)の建設現場から、大量の人骨が発掘された。新宿区は、形質人類学の権威である佐倉朔・札幌学院大学教授(元国立科学博物館)に鑑定を依頼した。

 この鑑定報告書によると、大部分は頭骨とその破片で、62体分、全個体数としては100体以上と推測した。大部分はモンゴロイド(アジア系の人種)だが、「特定の人種に同定することは不可能」で、「かなり異質な集団に由来する個体が混在」するという。しかも、「10数個の頭骨に、ドリルによる穿孔、鋸断、破折などの人為的な加工の痕跡」があった。「そのうちには、脳外科手術の開頭術に類似するもの6例、中耳炎の根治手術に類似するもの2例等があり、これらは頸部で切断された死体の頭部に対して実施されたもの」と書かれている。
 頭骨に切創、刺創、銃創の疑いのあるものを認め、四肢骨にはいろいろな部位をノコギリで切ったものが多い、としている。さらに、脳、眼、頸部などの軟部が残されたものもあった、という。

 この報告書から推定すれば対象は、本来多いはずの日本人ではなく、モンゴロイド、つまり中国、朝鮮などの人々、ということになる。正当な手術痕であれば、銃創などはあるまい。戦場の死者の遺骨なら、ノコギリの切断痕があちこちにあるというのも解せない。
 そんな疑惑が、この地にあった防疫研究室での生体解剖や、旧満州の731部隊から届けられた「資料」ではないか、という印象を与えた。

 その疑惑を明らかにしようという市民団体が動いた。厚生省、新宿区が、遺骨の引き取り手も特定できない以上、焼却・埋葬する意向を見せたことから、焼却差し止め訴訟が起こされた。ただ、国会での追及に、山下徳夫厚相が1992年に厚生省が調査に取り組むと発言、各方面の聞き取りやアンケートによる調査が始まった。
 2001年6月、厚労省は人骨由来の調査結果を発表した。

 旧医学校関係者239人を対象に調べて、144人が回答。うち21人はなにも知らなかったといい、23人が回答を寄せた。おそらく核心を知る幹部だった者は答えないだろうし、回答を寄せた者も推定伝聞にとどまった。

(1)医学校、防疫研究室などには多数の標本が保管されていた 
(2)戦場遺棄の中国兵戦死体の中から頭部戦傷例を標本として持ち帰った 
(3)教官から「研究に戦死体が必要で、軍医学校に送れ」といわれた 
(4)関東軍が馬賊討伐をし、処刑による斬首のものが送られた

 などだが、中には「昭和15年、ハルビンからドラム缶に入ったホルマリン漬けの生首が届けられた」「外国人の薬品漬けの首、かなり重いものを、かなりの数を30人くらいで暗い所内からどこかに車で運んだ」という2例もあった。

 いずれにせよ、追跡しきれなかったのだ。遺骨の身元などの追跡は、たしかに難しいことだが、一方で中国、韓国など国際的な課題に発展させまい、という意図も感じられる。
 それでも、厚労省は2002年3月、国立感染症研究所そばに御影石づくりの納骨施設を設けて、そこに遺骨を納めている。せめてもの供養だろう。

 ≪石井四郎の疑惑≫ 731部隊長石井四郎は、この新宿・戸山の軍医学校、防疫研究室に関わっており、その延長線上に旧満州での各種の生体実験もある。
 犯罪の訴追を免れたことで、その罪状をつまびらかにされなかったが、そのことが一層疑惑をもたれることになっている。隠ぺいがかえって事態を混乱させる好例であるし、疑惑を抱かせることにもなった。
 石井は千葉県の出身で、成田国際空港近くに実家があった。陸軍軍医学校の教官に任命されると、細菌戦部隊の創設を提言して、1932年に校内に防疫研究室を設置、自ら細菌学を教えるとともに、旧満州に行き、ハルビンに細菌戦の研究所設立に動き始める。

 そのころ、陸軍医学校に5分とかからない新宿区若松町77番地に自宅を構えている(現在は番地が変わっている)。今の国立医療センターに向かって左側の小路を入ったどん詰まりの土地で、今は3階建てのマンションに変わっている。石井が戦争直後、米軍などの追及を恐れて潜伏したところだが、生体実験のカルテなどの資料提供と引き換えに免罪となると、当時は2階建てだったこの家に米軍幹部を呼び入れていた。
 この家で彼らに女性をあてがっていた、という噂は近くに住んでいた筆者も聞いたことがあったが、「731」(新潮社刊)を書いた青木富美子氏によると、近隣の人の証言から「パンパン屋」「連れ込み宿」だったことを明確に引き出している。
 医師としての無法、人間としての尊厳のなさ、そして軍幹部の誇りを捨てた所業など、見聞きする側が恥じ入るような、屈辱のような思いを抱かざるを得ない。

 ≪「遺骨」の問題≫ 新宿・戸山で見つかった遺骨のことを考えていると、国会で3月24日に「戦没者遺骨収集推進法」が成立した、と報じられた。
 この報道によると、戦没者は240万人、1952年以来127万柱を収容、137万柱はまだ帰っておらず、さらにそのうちの60万柱くらいしか今後も収集される可能性はない、という。

 国家の命令で死ぬ、そのこと自体に基本的な大きな問題がある。しかも、遺骨状態になっても放置されたままだ。すでに戦後70年が経っているのに、である。その程度の「国家」なのかと思う。遺骨になる前の多くの若者の「心」は、国のために命を捧げよう、というものだったに違いない。
 筆者の危惧は、国家の命令という総動員態勢で戦争を進めながら、その遺骨さえ70年が経っても、相当数が野にさらされたままだったということである。せめて、骨くらい一刻も早く遺族に戻してあげようという国家の意思はなかったのか、と思う。
 「一億総動員」の掛け声のもとに、帝国軍人として、国家が進めた戦争行為に参加させられて、死んだらそれまでよ、なのか。
 両陛下が1月、フィリピンに慰霊したが、皇室の姿勢は一貫して戦争の惨禍への償いの気持ちが感じ取れる。だが、政府・国家の取り組みは褒められたものではない。

 東日本大震災の被害者は、警察庁調べで死者1万5892人、行方不明2562人で、5年を過ぎた今も、せめて遺骨だけでも、と探す家族は少なくない。自然災害ですら、このような遺家族の思いがある。
 本人や家族の思いなど関わりなく、国家に動員され、悲惨な最期を異国の地において強制された兵士の遺家族の思いはいかばかりだろうか。せめて遺骨くらいは、の思いのはずだろう。

 単に「骨」と言ってほしくない。骨肉の思いを考えなければならない。靖国神社に祀れば、遺家族の思いは安らぐのか。戦争、というものの発端もさることながら、個々人にもたらされる戦争の結末にこそ思いを新たにしなければならない。

 祖国において、異国から仕掛けられた戦乱に抗った人々が、生命のみならず、骨の部分までも自在に放置され、形式的に安置される。しかも、どこの馬の骨か、といった扱いで。それが国家というもののすることなのか。国家よりは個人としての生命が重視されなければならないからこそ、平和を確保して、個々人の生命や財産を守る責務を国家にゆだねているのだ。
 国家第一の思考が一般化した社会は、ゆがめられる。平和のある時代に、「万一」という言い方で、あるいは「安全保障のため」という言い方で、外交が姿を見せず、国家の軍事力強化が叫ばれる。それが、近隣諸国への疑惑や憎悪をまき散らす。その延長線上に、731部隊の非行が生まれ、戦争を許容する世論が醸成される。
 国民に対する「騙しのテクニック」が、多数支配の国会で容認されると、思わぬ不幸をいつの日にか身近に受け止めなければならなくなる。

 そうした意味で、731部隊の亡霊は過去のことではなく、将来にありうる事例としてその教訓を受け止めておくべきだろう。軍隊的組織は、本当に国民を守るものなのか。隠ぺいされた組織の中で行われることを信じられるのか。
 国家指導者の美辞麗句の裏にあるものを読み取り、歴史の教訓はいつか忘れられて愚考を繰り返すものだと悟り、社会の趨勢に疑問と疑惑を持ち続けることの大切さを胸に秘めておきたい。

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 「落穂拾記」というコラムを、誘われるままに50回続けました。まだ思うこと、関わったことなど、書きたいことはありますが、「オルタ」同人にはまだまだ書き手がおいでです。この節目に、若い方に席を譲り、折あらばまた書かせていただきたいと思います。「オルタ」の存在に心から感謝しています。

 (元朝日新聞政治部長)


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