片田舎に生きた左翼人がいた

落穂拾記(23)                    羽原 清雅

片田舎に生きた左翼人がいた

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「小京都」といわれる島根県の津和野に先日出向いた折に、「この地に戦後、
共産党村長第一号が生まれたんですよ」と聞かされた。この保守的な土地柄に
「まさか」と思わせるような話だった。津和野藩は山地に囲まれた産業も乏しい
四万三千石の小藩で、大きな百姓一揆もなく、なにかと話題の多い隣接する長州
藩とは対照的な温和な土地に、である。

当時はまだ、「木部村」という小さい農村で、今は津和野町に合併している。
木村荘重(1907-82)がその人で、終戦に伴う民主化のなかで1947(昭和22)
年4月、無投票で木部村長に選ばれている。島根県では、そのあとも本庄村(現
松江市)、鳥井村(現大田市)に共産党村長が登場している。

調べてみると、この県では、戦後初の衆院選(1946年4月)で定数6人中社会党
から2人が当選、翌年の衆院選では社会党から2人、共産党から1人が当選。木村
村長が選ばれた統一地方選では、ほかに松江、出雲両市長が革新系となり、また
県議選も42人中11人が革新系、さらに1949年1月の衆院選も定数5のうち社共で2
議席を占めていた。

戦争がやっと終わり、新時代の到来に共産党や社会党に期待が集まり、戦争遂
行の旗を振ってきた保守勢力離れが起こって当然の時代であったのかもしれない。

しかし、それにしても、この木村荘重という人物の生涯は、時代の産物という
以上に、また単なる政党の一員という以上に、もうひとりの仲間平原甚松(後
述)とともに、おのれの考え方を守り抜いたその一貫性に「凄み」を感じさせら
れる。

木村荘重が生まれた1907(明治40)年は、足尾銅山でストライキ暴動が起き、
堺利彦らの結成した日本社会党が結社禁止となった年である。あえてそうした事
例を見ていくと、伊藤博文の暗殺(1909)、幸徳秋水らを死刑にした大逆事件や
韓国併合(1910、11)などがあり、第一次世界大戦、対華21ヵ条の要求、シベリ
ア出兵、コメ騒動などを経て、彼が地元の尋常高等小学校を一年で中退する1921
(大正10)年には原敬首相が暗殺され、その翌年には非合法の日本共産党が結成
される。また、全国水平社、日本農民組合が結成されている。

さらに翌々年の1923年には関東大震災があり、そのさなかに朝鮮人の虐殺事
件、大杉栄一家が憲兵らに殺害される。いわば幼少期の日本としては、戦争に
まっしぐらに進む準備段階とも言えるころで、天皇制を戴きつつ権力を固める軍
部、官僚、財閥勢力が台頭、またこれに反発するひと握りの左翼的陣営が胎動す
る時期だった。

学校を辞めて農業に取り組むうちに、19歳の1926(大正15)年、海軍の呉海兵
団に徴兵される。前の年には普通選挙法と抱き合わせで治安維持法が公布され、
入隊の年には弾圧の強まるなかで労働農民党、社会民衆党、日本労農党が結成さ
れるころだった。

木村は入隊一年後の1927年、山東出兵にあたって陸戦隊の一員として現地の戦
闘に参加。このときに侵略戦争の矛盾や軍上層部の腐敗に反発や怒りを感じるよ
うになったという。だが、日記にその反戦的な考えを記していたのが見つかり、
昇級禁止の処分を受けて海兵団付となって、1932年には満期除隊となり、郷里に
戻ってくる。

木村が呉の軍港にいた1930年頃、先に触れた平原甚松ら反戦グループ10人余は
阪口喜一郎(二等機関兵曹)のもとで社会科学研究会なる秘密組織をつくってお
り、木村もそのメンバーだった。木村の除隊後に、折からの治安維持法違反で仲
間の5人が逮捕、現役免除の処分となる。屈しない阪口、平原は非合法の共産党
に入党、党の呉地区軍事部の機関誌として「聳ゆるマスト」を創刊した。

ところが、阪口は党中央での任務につくことになる。このため、後任の党中国
地方軍事部の責任者に木村を据えようと、津和野まで説得に来る。木村はこれを
受け、呉で「聳ゆるマスト」の第4、5号を発行する。ひそかに水兵たちの投書を
集め、広島でガリ版を切り、謄写版で印刷し、呉に戻って女給たちを活用して水
兵たちに配布するのだが、憲兵や警察の監視は厳しく、緊張の続く日々だった。
それでも、購読は100部を超えていた、という。

木村たちの動きは間もなく見つかって、木村とともに数人の水兵が治安維持法
違反の容疑で裁判にかけられた。
木村は懲役3年の判決で、1934(昭和9)年1月に広島刑務所に収容、2・26事件
のあった1936年7月に減刑されて出獄した。2年半の獄中生活だった。その後は、
出身の木部村に戻って農業のかたわら、木材会社に勤めるなどして、終戦を迎え
た。

木村にとっての終戦は、久々の晴れ間を見た感があっただろう。さっそく、鳥
取市に党幹部を迎えての講演会に行って入党し、翌1946(同21)年5月には島根
県共産党の創立に関わっている。
そして、その翌47年4月に、木部村長に無投票で当選する。なぜ無競争だった
のか、どんな村政だったのか、などは生存の人も少なく、まだトレースできてい
ない。

その後、1950年6月、朝鮮戦争が勃発する。木村村長はその10月、朝鮮戦争反
対のビラを配って、占領軍政策違反容疑で逮捕され、軍事裁判にかけられる。判
決は最初、重労働7年・罰金1500ドル(50年12月)、二審で重労働5年・罰金1200
ドル(51年3月)、そして最終審で重労働4年・罰金1200ドル(51年5月)となっ
て下獄するが、この年の7月末にはサンフランシスコ講和条約調印による減刑措
置で出獄している。

その後、1955年2月から63年2月までの2期、津和野町議に当選している。こう
したことから、政党の好悪ではなく、その人柄に一定の人気があったように思わ
れる。

奥さんはその間、飲食店を開いていたが、過疎の進む土地での営業は不振、生
活に困って知人を頼って神奈川県小田原市に移り住んだ。ほぼ20年を経た1982年
湯河原の老人ホームで亡くなった。享年75歳。 山口刑務所時代に短歌を始めて
おり、権力の不当などを問う短歌集を残している。

木村の長い闘友であった平原甚松(1906-82)。木村よりも1年早い生まれ
で、木村と同じ年に亡くなっている。木村は郷里ではない異郷で死に、広島県の
小島に生まれた平原が津和野で亡くなっている。墓所はともに津和野郊外にある。

その平原だが、木村と同じ時期に呉海兵団に入団、その後駆逐艦磯風の乗組員
になり、横須賀滞在中に横須賀工廠の「戦旗」(蔵原惟人、中野重治ら全日本無
産者芸術連盟(ナップ)の文芸機関誌)の読者グループと知り会うが、発覚して
検挙。それでも、呉に戻って、先に触れた阪口喜一郎らとともに社会科学研究会
を組織している。

このころは、1928年の第1回普通選挙直後に共産党員の大量逮捕となった3・15
事件があり、翌年には労農党代議士山本宣治の暗殺、続いて共産党など左翼勢力
を押さえ込む4・16事件など、活動家たちにとっては身の危険の迫る暗黒の時代
だった。

平原は満州事変(1931年9月)の直前に、治安維持法違反容疑で憲兵隊に逮捕
されるが、黙秘を続け、結局現役免除の処分にとどまった。むしろこの年の12月
には、阪口とともに非合法の共産党に入党、反戦機関誌「聳ゆるマスト」の秘密
刊行を続ける。だが、翌年には特高につかまり、留置場で拷問を受けるが、黙秘
を続けて2ヵ月ほどで釈放された。

その後も、今度は阪口とともに党の横須賀軍事部員としてひそかな活動を続け
るが、これも間もなく警察に摘発され、拷問・完黙・ハンストを繰り返して不起
訴になる。

しかし、帰郷の途中、今度は広島県三原署につかまり、1933(昭和8)年末に
治安維持法違反で3年6ヵ月の実刑判決を受け、広島刑務所入りして2年余の服役
生活を送る。 仮釈放の身ながら、活動を続けて逮捕されるのだが、なんとか不
起訴になる。

終戦を迎えて、木村が村長選に出ようとしたころ、広島県の大崎上島に住む平
原は誘われて夫婦で津和野郊外の木部村に移住してくる。闘争を通じての親友で
あり、村長の片腕でもあったようだ。

平原は木部農民組合の書記長になるが、1955(昭和30)年1月に木部村と旧津
和野町が合併したのを機に、津和野町役場に勤務することになり、のちに税務係
長から税務課長を務めている。木村のテコ入れがあっただろうが、それにしても
かなりの要職であり、それをこなせるだけの才覚と人望があったのだろう。保守
安泰の地がよく受け入れた、との印象が強い。

平原の役割は、むしろそのあとの公害闘争にある。
平原の定年退職(1969=昭和44年)のころ、津和野では坑口が木部にあった笹
ヶ谷鉱山の公害が重要な問題になっていた。この鉱山は銅を産出する13世紀ころ
からの優良鉱で、また亜ヒ酸も採取していた。じつは「石見銀山ネズミ捕り」と
いわれた薬剤はこの銅山からのものだったのだ。

公害はかなり古くから出ており、工場からの煙や水で飲料水や灌漑用水が汚染
されたり、「かな焼け田」といわれるように田畑が突然焼け枯れたり、しばしば
被害が出たという記録がある。また、このころ四日市ぜんそく、熊本・新潟の水
俣病、富山のイタイイタイ病が社会問題となり、1970年には石橋政嗣社会党書記
長の石原産業事件追及を機に公害国会が開かれるなど、対策が徐々ながら進むよ
うになった。宮崎県では同じような被害を出していた土呂久鉱山でも抗議と救済
の動きが高まっていた。

住民たちはその被害はわかっていても、為す術もなく、泣き寝入りの側面もあ
った。そこで、平原が事務局長として取り組んだのが約50人の被害者による「旧
笹ヶ谷鉱山の鉱毒から命を守る会」だった。簡易水道を引いても金気のある水が
配水されたり、カドミウム汚染が証明されても県側はその健康被害をなかなか認
めようとしなかったりするなかで、活動を続けて賠償・補償の請求に動いた。10
年に近い運動で救済などの措置は進んだが、その一方で、政党色があるとして、
警戒の気配が消えない一面もあった。

平原は、事務局長を辞任後間もない1982年1月、津和野共存病院で半世紀にわ
たる闘争の生涯を終えている。享年76歳。

津和野という地方の小さな町に生きた、ふたりの左翼活動家。その是非や党派
性ではなく、人間としての逞しさ、信念の強さとその耐久性に感じ入るものがあ
った。また、時代の流れと一般大衆の意識が激しく変わる一方で、変わらない人
間の姿を見る思いでもあった。

彼らの戦前の反戦記録は「聳ゆるマスト」(山岸一章著)、同じタイトルの著
作(小栗勉著)、阪口喜一郎らを記録する映像ドキュメント(DVD)、「聳ゆ
るマストと木村荘重-その獄中歌」「聳ゆるマストと平原甚松-その不屈の生涯」
(ともに三好惣次編)がある。 ただ、津和野での戦後と、そのひととなりが残
されていないのは残念である。

(筆者は元朝日新聞政治部長)

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