【コラム】宗教・民族から見た同時代世界

クーデター未遂事件からあぶりだされたトルコの行方

荒木 重雄


 中東の「要」とも、中東と欧州の「結節点」ともよばれるトルコが、揺れている。なぜか。7月のクーデター未遂事件前後から状況を整理してみよう。

◆◆ クーデターよりその後に問題

 トルコでは1923年の共和国建国以来、軍が、政教分離や公の場から宗教色を排除する世俗主義など、建国原理の「守護者」を自任して、過去3回のクーデターを含め、政党政治を監視し介入を重ねてきた。
 ところが、2002年に政権に就いたイスラム保守の公正発展党(AKP)は、エルドアン首相の指揮のもと、長期安定政権を維持して、同国を中東屈指の経済大国に成長させ、そうして得た国民の支持を背景に、軍の力をそぐ闘いを継続している。

 エルドアン氏は14年、トルコ初の直接選挙で大統領に当選。
 名実ともに政治の実権を握った同氏は、近年、イスラム重視を公然と語るようになるとともに、強権的な振舞いも目立つようになり、こうした状況に反発した軍の一部が企てたのが、今回のクーデター事件であった。

 だがすでに、エルドアン氏は軍・司法・警察・主要メディアなどの中枢を親AKPの人物と入れ替え済みで、軍本体は動かず、休暇先のリゾート地のホテルを間一髪で脱出した大統領がスマートフォンで、国民に通りへ出るよう呼びかけただけで、反乱は半日を経ずして鎮められた。

 このようなクーデターであったから、今後のトルコの行方として注目されるのは、クーデター事件そのものよりも、そこから見えてきた、その周囲のさまざまな問題である。

◆◆ 「テロ対策」で批判勢力一掃へ

 事件を受けて、AKP政権は、首謀者は米国亡命中の政敵ギュレン師と断定。ギュレン師は、世俗主義とイスラム教は矛盾しないとする穏健な思想の宗教指導者で、かつてはエルドアン氏と盟友であったが、エルドアン氏が公的機関でのスカーフ着用や酒類販売の規制強化など宗教色を前面に出すに伴い、袂を分かち、米国に逃れたとされる。
 クーデターに関わったのはその信奉者であるとして、政府は、ギュレン派と疑われる軍人ら約1万6000人を逮捕し、公務員や教育関係者ら約7万人を解職や資格剥奪とし、130以上の報道機関を閉鎖させた。

 これに先立ってエルドアン大統領は、3カ月の「非常事態」を宣言。「テロ対策」の事実上の白紙委任を取り付け、人権条項の停止や、国会の審議・議決を経ずに大統領が主宰する閣僚会議が法律と同等の効力を持つ政令を発布する権限などを盛り込んだ。[安倍政権が緊急事態条項で狙うのがこれか]

 トルコでは13年頃から、若者を中心とした反政府デモや、大規模な汚職疑惑を追及する報道やデモが相次いだが、AKP政権はこれに対してデモは力で抑え込み、政権に批判的なジャーナリストや学者は次々逮捕・拘束し、批判を封じる目的でツイッターなどのSNSも一時遮断するなど、強権的な手段で対応した。その強権ぶりが、クーデターを奇貨として一層高じ、批判的な勢力の一掃に向かっているように見える。

◆◆ 強硬路線の見返りは恐怖

 もう一つトルコ政府がいきり立つのが、首都アンカラなどで頻発する爆発テロである。
 トルコは昨夏、米国に歩調を合わせて過激派組織「イスラム国(IS)」に対するシリア領内での空爆に踏み切った。同時に、国内でクルド系住民が多い南東部で大規模なクルド労働者党(PKK)掃討作戦を展開した。

 クルド人とは、トルコ、シリア、イラク、イランなどの国境に分断されて住むクルド語を母語とする民族で、トルコには1,000万人以上が住む。トルコの単一民族主義政策に反発して分離独立の主張を掲げた組織がPKKで、84年からは武装闘争に転じた。2013年から政府との間で和平交渉が始まっていたが、昨年夏、政府軍が一方的にPKK拠点への空爆を再開したことで頓挫した。

 ISやPKKへの空爆という強硬路線は、その報復として、ほんらい対立関係にあるISとPKKの双方から爆発テロに脅かされることとなったのである。

◆◆ 硬直化深める外交で孤立

 トルコ政府は、クルド人組織への警戒感から、隣国シリアでISと戦っているシリアのクルド人組織・民主統一党(PYD)を越境して砲撃・空爆するという挙にでている。PYKは自国のPKKの分派でテロ組織だという主張である。ところが米国は、IS掃討作戦を空爆に限って地上部隊を派遣せずその役割をPYKの部隊に委ねているところから、トルコ軍のPYD攻撃に、同盟国ながら不快感を滲ませる。

 一方、ロシアとは、シリア内戦でアサド大統領を支援するロシアと反アサド派武装勢力を支援するトルコは基本的に対立関係にあり、しかも昨年11月にロシア軍機をトルコ軍が撃墜した事件がしこりとなっている。
 近隣諸国との関係でも、隣国シリアとは前述のとおりであり、エジプトとは、親イスラムのムルシ前大統領政権をクーデターで倒した現軍事政権とは犬猿の仲である。

 このように軋轢の多いトルコを巡る国際関係だが、今年3月に欧州連合(EU)とトルコの間で合意された、トルコからギリシャに渡る難民・移民を原則トルコに送り帰す取り決めは、難民問題に悩む欧州と国際社会へのトルコの大きな貸しである。また、微妙な利害で日々変転する外交関係の行方は定めがたく、米・ロ・シリア・エジプトとも関係改善の兆しはある。

 だが、かつてのエルドアン氏が率いたAKP政権は、周囲に敵をつくらない「全方位善隣外交」を展開して、中東と欧米を繋ぎ、「アラブの春」がアラブの嵐となって中東・北アフリカを席巻したときにも「中東民主化のモデル」として安定を保ち、国際社会の信望を集めていたことを思うとき、隔世の感を免れない。

◆◆ トルコの行方を定める原動力

 この変化はどこからくるのだろうか。
 21世紀に入って以降のトルコ政治では、なんといってもエルドアン氏がキーパースンである。したがって、上に見た変化にも、エルドアン氏の思想や経歴がなにほどかは関わっていよう。

 貧困層が多い下町に生まれ、サッカーとモスク(イスラム礼拝所)が好きな少年だったエルドアン氏は、20歳の頃、親イスラムで中道右派の国家救済党(MSP)に入党し政治活動を始めるが、同党は80年、軍のクーデターで非合法化。後継の福祉党(RP)に入党し、人心を掴む演説で頭角を現して、94年にはイスタンブール特別市の市長に当選。都市基盤整備と貧困層救済に手腕を発揮して人気絶頂の若手市長だったが、97年、イスラム教を賛美する詩を政治集会で朗読したことから煽動罪で提訴され、市長を解任されて、被選挙権剥奪、4年半の実刑判決で収監された。
 福祉党は98年、憲法裁判所から解党を命ぜられ、さらに後継の美徳党(FP)も2001年、活動禁止に。このイスラム保守の流れを継いで、この年、被選挙権剥奪のままエルドアン氏を党首に結党されたのが、現政権党の公正発展党(AKP)である。
 エルドアン大統領は、じつは、このように幾度もの弾圧と挫折に耐えて、その度に再起を果たしてきた、筋金入りの闘士なのである。

 もう一つ、トルコの行方を暗示する情景がある。
 エルドアン大統領がクーデターに際して「市民は家から外に出て、軍に対抗してほしい」と放送で呼びかけたとき、多くの男たちが「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」と連呼しながら通りを練り歩き、反乱軍を取り囲んだという。
 また、クーデター未遂後も数日間は、夜になると、イスタンブール中心部のタクシム広場に万を超える群衆が集まってきて、掲げられた国旗や、国旗をあしらったTシャツや帽子で広場一帯を赤く染め、AKP幹部が「全ての国民がイスラムのもとで一つになる」と演説する姿を映し出す巨大スクリーンの周りで、若者たちが、エルドアン氏を讃える歌を合掌したり「アッラー・アクバル」と絶叫したりしていた。と伝えられている。

 憲法に明記された「世俗主義」の国是や、理知的で寛容なイスラムという、これまでのトルコのイメージとは裏腹に、ここでも、宗教を基盤とした愛国と団結の熱狂が、社会と国を動かしはじめているのだろうか。

 (元桜美林大学教授)


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