宗教・民族から見た同時代世界              荒木 重雄

政治も揺るがすインドネシアの精霊信仰

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インドネシアやマレーシアでよく語られる小噺がある。

漁師が沖に漁に出た。すると雲行きが怪しくなってきた。はじめは大したこと
はなさそうなので、漁師は、「アッラーの神よ助けたまえ」とイスラムの型どお
りの祈りをささげる。ところがそのうち嵐がひどくなって、ただごとではなさそ
うになると、漁師の目の色が変わってヒンドゥーの神々に祈りはじめる。さらに
嵐が激しくなって、ついには舟も覆るかとなると、もう他所からきた神様では間
に合わないと、古来の土着の精霊に必死に祈る。

◆ 「重層信仰」に歴史あり

建国5原則(パンチャシラ)の第1に「唯一神への信仰」を掲げ、無神論は認め
ないこの国で、国民の9割近く(約2億人)がイスラム教徒であるインドネシア
は、イスラム国家を標榜はしないが、世界有数のイスラム大国であることに間違
いない。

しかし、そのイスラム教徒の「内実」は、先の小噺が示すように、単純ではな
い。その背景には、地域の歴史が指摘される。

もともとこのあたりの住民は(このあたりと限らず)、土着の精霊信仰をもっ
ていた。精霊信仰とは、森羅万象に精霊が宿り、生霊・死霊が跋扈する世界観で
ある。そこに、海上貿易を通じてインドから、大乗仏教も混淆したヒンドゥー文
化が伝えられ、7世紀頃から、ヒンドゥー文化を基盤とした王国がスマトラやジ
ャワに出現した。

とりわけ東ジャワに成立したマジャパイト王朝は13世紀から16世紀にかけて、
この海域一帯に強大な影響力を誇った。だが、15世紀頃からイスラム勢が南海貿
易の覇を握るようになり、島々はこぞってイスラムに傾いていった。

このような歴史から、人々の意識に、表層のイスラム、中層のヒンドゥー、深
層の精霊信仰という重層構造(重層信仰=シンクレティズム)が形成され、状況
によってそれぞれの層の価値観・世界観が表に現われてくるようになった、とさ
れるのである。

インドネシア、とりわけジャワでは、イスラム教徒に3種類があるとよくいわ
れる。一つは、戒律や規範を厳格に守り、極力、イスラムの理想を生きようとす
る敬虔なイスラム教徒のサントリ。次は、イスラム教徒ではあるけれど、ヒンド
ゥー的な文化を濃厚に維持している、旧王国の貴族の末裔を自負するプリアイ。
もう一つが、結婚や埋葬などの通過儀礼はイスラム流でやるが、礼拝のしかたと
なると、さあどうだったか、となり、中国料理の豚も食し、土着の精霊信仰に多
くを依っている、アバンガンとよばれる人たちである。そして、この人たちが、
社会の多数派をなしている。

◆ 大統領にもお抱え呪術師

中に土着信仰やヒンドゥーの「あんこ」が詰まり、表の薄皮だけがイスラム
の、「薄皮まんじゅう」に喩えられるインドネシアの信仰の、その薄皮をつき
破っているのが精霊を操るとされる呪術師である。

ドゥクン、あるいは尊敬を込めてロモとよばれる呪術師は、世界の平和、国の
安泰から、病気治し、失せ物捜し、もめごと解決、敵を呪い倒したり逆に呪いを
解いたりと、顧客の求めに応じて多様な活動をする。「本当に困ったときはドゥ
クンへ行く」はジャワの庶民の常識である。

いや、庶民だけではない。政治家は選挙に勝つために、呪術師から霊を買う。
国会議員選挙なら、相場は7億5千万ルピア(約730万円)から30億ルピア(約
2900万円)。呪術師が操る霊が候補者を当選させたり相手を落選させたりするの
だが、より有力で、したがって高額な霊が勝つという。

インドネシアの歴代大統領がお抱えの呪術師をもったことは広く知られるとこ
ろだが、スハルトが30年余りにも亙って独裁政権を維持できたのは、ジャワ全土
の精霊を支配する南海の女神ロロ・キドゥルの加護を受けたからだといわれてい
る。

もっとも、自らをイスラム教徒とする多くの呪術師は、一番強い霊はいうまで
もなく唯一神アッラーだと信じ、また、イスラムの相互扶助の精神に則って貧し
い者からは謝礼を取らず、政治家などから得る高額の謝礼も、生活に必要な分を
除いたほとんどをモスクやイスラム寄宿学校に寄付するのが業界の暗黙の了解と
いう。

◆ 「黒魔術」防止に刑法改正

だが最近、呪術師が顧客の求めに応じて相手に呪いをかける「黒魔術」が社会
問題になっている。

郷富佐子氏の報告によると(朝日新聞3月14日)、黒魔術によると見られる、
男たちが強い酸をかけられて火傷した事件や、女児の身体から20数本もの釘や注
射針がみつかった事件、あるいは、黒魔術をかけたと疑われた呪術師が放火や殺
傷のリンチに遭った事件などが相次ぎ(その数、年に数百件)、黒魔術を禁じる
刑法改正の動きが出てきているというのである。

国家刑法案委員会がすすめる改正案では、黒魔術の存在を認めたうえで犯罪に
使われなくするのが目的とされ、超能力によって人を殺したり病気にさせたりす
る行為には、最高で禁錮5年か最高額の罰金が科されるようになっている。
たしかに現行刑法でも、魔力があると公言したり法廷にお守りを持ち込む行為
などは禁じられているが、違反しても数十円の罰金ですむうえ、適用された記録
はないという。

画期的な刑法改正ではあるが、呪術師に使われた霊が自首でもしてこないかぎ
り確証はないといわれる黒魔術犯罪。警察でさえ捜査に行き詰まると呪術師を頼
りにするという社会風潮。しかも呪術師依存の議員も多いインドネシア国会での
こと、審議の行方は不透明である。

そんな騒ぎをよそに、来年に予定される総選挙と大統領選には、また幾多の精
霊が売買されることになるのだろう。

(筆者は社会環境学会会長)

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