【コラム】大原雄の『流儀』

歌舞伎界は、いま、危機ではないのか。

大原 雄


 2015年2月21日、歌舞伎役者の十代目坂東三津五郎(59)が、逝去した。十八代目勘三郎(12年12月、57)、十二代目團十郎(13年2月、66)の死に続く。

 現役の役者で、現在も舞台に立つ「長老・大御所」と呼べる人たちは、以下の通り。順番は、生年月日順。
 坂田藤十郎(84)、澤村田之助(82)、幸四郎(72)、菊五郎(72)、仁左衛門(71)、吉右衛門(70)、玉三郎(64)の世代(このうち、人間国宝は、藤十郎、田之助、菊五郎、吉右衛門、玉三郎の5人)である。

 これに続く「次の世代」として、三津五郎は歌舞伎界の中堅どころを支えていたひとりだ。三津五郎と同世代、あるいは少し上の世代まで含めてみると、梅玉(68)・魁春(67)の兄弟、歌六(64)、時蔵(59)、芝雀(59)、又五郎(58)などがいる。

 それ以前の物故者としては、六代目歌右衛門(2001年3月、84)、五代目富十郎(2011年1月、81)、七代目芝翫(2011年10月、83)、四代目雀右衛門(2012年2月、91)などがいた。

 ほかに、病気休演中で、復帰の目処が立っていない九代目福助(54)は、2013年、七代目歌右衛門襲名が内定(襲名披露は2014年の予定だった)した段階で脳内出血で倒れ、頓挫してしまった。ほかに病気休演中では、1998年、脳梗塞で倒れた二代目澤村藤十郎(71)、2003年、病気で倒れた三代目市川猿之助、現在の二代目猿翁(75)も時折元気な姿を舞台で見せてくれるが、往年の活躍は出来ないでいる。最近では、五代目片岡我當(80)が、病気休演している。

 こうして、改めて役者衆の動静をチェックしてみると、2011年以降、長老格だけでなく、中堅どころも含めて、急激に逝去者や病気休演者が増えているように見える。

 こうした逝去者、病気休演中の役者たちの穴を埋めるのは容易ではない。このところの毎月の興行を観ていると、明らかに、「大きな役が出来る」限られた中軸の実力役者に負担がかかっているように見受けられる。特に、幸四郎、吉右衛門の出番が多いことに気づかされる。最近の上演記録を見ると、幸四郎は、團十郎や勘三郎の得意とする演目を担っているように思える。吉右衛門は、團十郎の得意とする演目を担当しているようだ。役者の上演のインターバルを見るとおおよそのことが判ってくるように思える。

 亡くなった三津五郎も親友の勘三郎の死後、勘三郎の得意演目を担当する機会が増えていた。興行の中軸となる役者が決まらないと、一門の中堅、花形、若手、大部屋の役者などまで出演の機会が替わってしまうから、責任重大だ。江戸時代の千両役者と呼ばれた歌舞伎役者の「千両」は、座頭役者として、一座、一門の全ての役者の給料、衣装なども含めて千両という給金だった。千両役者も、会社の社長みたいな者で、自分が代表してもらう給金の範囲で大勢の社員を養いながら、諸経費も負担しながら、芝居をしなければならないから結構大変だったであろう。

 こうしたことを軸となる限られた役者と相談しながら、幾つもの芝居小屋の運営を調整する松竹は、歌舞伎興行における役者の健康管理に万全の配慮をしてほしい、と思う。軸となる役者を失ってしまっては、結局、花形、若手、最若手の役者たちの育成計画にも影響して来るだろう。役者の健康管理は、自己管理の部分もあるにせよ、歌舞伎百年の計の重要な柱のひとつであろう。そう考えると、2011年以降、6人もの歌舞伎役者の実力者たちの死は、由々しき事態だ、と私は懸念する。

 突然の役者の逝去という舞台からの退場と「一世一代」という、演目の演じ納め、いずれも、その役者の舞台は見られない、ということには変わりはないが、同じような「退場」であっても、大分、感じが違うし、一般の観客には、判りにくいことだろうと思うので、今回は、これを書いてみたい。

 2015年2月歌舞伎座では、密やかに、「一世一代」の舞台が披露されていた。夜の部「一谷嫩軍記 〜陣門・組打」である。

 「一世一代」と役者が銘打つ、あるいは、密かに決意する演目は、「これで打ち止め」という意味が籠められる。もう、自分はこの演目は、本興行の舞台では、演じません、と宣言するものだ。そして、記憶力、判断力など体力気力があるうちに有望な後継者に芸の伝承をする。厳しく教えるだけの力を残して、打ち止めにしないと、きちんとした指導も出来なくなるからだ。今回、密かに「一谷嫩軍記 〜陣門・組打」という演目を「一世一代」にしたのは、中村吉右衛門である。今や、立役では歌舞伎界の最高峰にいるだろう。その舞台が実に素晴らしかった。吉右衛門の描く「父親」・直実像が良かったのである。以下が、私の最新の二代目吉右衛門論である。

 「一谷嫩軍記 陣門、組打」。私が観るのは、7回目。この場面を演じた熊谷直実:幸四郎(4)、吉右衛門(今回含め、2)、團十郎。直実の息子・小次郎と敦盛のふた役は、染五郎(3)、梅玉、福助、藤十郎、今回は、菊之助。

 今回の吉右衛門は、楽屋話で「これが最後かもしれないと思って務めたい」と言っているが、本気に「一世一代」のつもりで、演じているのが舞台からひしひしと伝わってきた。科白廻し、表情、所作など、全体も細部も見応えがあった。吉右衛門ファンならずとも、見逃しあるな、という絶品の直実。

 「熊谷陣屋」の武人・直実とは、また違った父親・直実であったと思う。今月の歌舞伎座、最高の出し物だったと思う。娘しかいなかった播磨屋に聟とはいえ、音羽屋の御曹司・菊之助を迎え、息子と父親の関係を実感した吉右衛門が、敦盛に扮して死地に向かう小次郎という「息子殺し」の痛ましさが演技を越えて表現しえたように思える。息子殺しの後始末をして、左手で馬の轡を持ち、右手で息子・小次郎の首を抱き、目を剥いて静止する父親・直実の凄みの表情は、一生忘れないであろうと思った。

 13年2月に亡くなった團十郎の直実は、08年3月、歌舞伎座で観ているが、その時の私の劇評。「リアルな戦場の軍人を余すところ無く表現していて、大人の男の魅力を抑制しながら、横溢させるという、見事な演技だった」。團十郎最後の組打の直実であった。これも貴重な舞台だった。

 「陣門」は、矢来と陣門(舞台中央から上手寄り)、そして、黒幕というシンプルな大道具。本来、この場面、観客にとっては、小次郎、敦盛が、別人となっている。「熊谷陣屋」の場面になって、初めて、敦盛には、小次郎が化けていて、敦盛を助ける代りに父の手で小次郎が殺されたという真相が明らかにされるので、観客は、同じ役者のふた役と思っている。

 やがて、小次郎が扮したはずの敦盛(菊之助)が、鎧兜に身を固め、白馬に乗り、朱色も鮮やかな母衣(幌・ほろ)を背負い、陣門から出て来る。

 「須磨の浦」。背景は浪幕の舞台。花道から玉織姫(芝雀)登場。薙刀を持ち、敦盛を探している。敦盛を追い掛けていた平山が、下手奥から出て来る。横恋慕をしている玉織姫に「敦盛を討った」と嘘を付く。猫なで声で、姫に迫る平山。「女房になるか」「さあ、それは・・・」「憎い女め、思い知れ」と姫に斬りつける。戦場という公の場で私を絡める、危機感のない男。こういう男は、どこにでもいるなあ、と思う。上手の岩(張りもの)近くの枯草の中に倒れ込む玉織姫。背景は、浪幕の振り落としで、「浪幕」から、海の「遠見」に替る。沖を行く御座船が見える。

 幸四郎は、実の息子・染五郎を相手に3回、この場面の直実を演じている。幸四郎の直実も悪くは無いが、幸四郎は役者魂が旺盛なのだろう。息子・染五郎もライバルだと言うだけあって、実の親子ならではの情愛をださないようにしているのだろう。

 一度だけ観た團十郎は、素晴しかった。大病を2回も克服してきたという経験が、落ち着きのある、冷静沈着な戦場の「武人」振りを見せてくれた。見えない心を「形」にして見せるのが、歌舞伎の演技なら、これは、まさに、オーソドックスなまでに、真っ当で、てらいが無かった。もう、観ることが出来ない。小次郎・敦盛役は、女形が演じるので、團十郎は、息子・海老蔵を相手には、この場面は演じられないし、実際に演じてはいない。

 さらに良かったのが、冒頭に書いた通り、今回の吉右衛門。吉右衛門は、幸四郎、團十郎らの武人・直実より、我が子殺しの父親・直実の苦渋を噛み締めていたと思う。

 小次郎・敦盛を演じた菊之助の上品さ。小次郎・敦盛役最高齢の藤十郎(團十郎が良く相手役として選んでいた)は絶品だったが、今回初役で演じた菊之助の小次郎・敦盛は清々しい。まさに「初陣」の小次郎の健気さ、初々しさ、若武者としての敦盛の気品などが滲み出ていた。

 直実と小次郎扮する敦盛は、須磨の海に馬で乗り入れる。「浪手摺」のすぐ向こうの浅瀬では、浪布をはためかせて、「波荒らし」を表現する。沖の御座舟に向おうとする敦盛、そして、敦盛を追う直実の行く手を波が阻もうとする。沖の場面では、子役を使った「遠見」(遠近法で、遠くの人物が小さく見える、という想定で、大人の主役らの代わりに同じ扮装の子役が演じる)という演出でふたりの海中対決を描く。

 敦盛、直実役者は、花道から本舞台を横切り、上手へ。浅瀬を上手から下手へ。白馬に乗った敦盛は一旦、下手に引っ込んだ後、続く場面は、定式通りに子役を使った「遠見」に代わる。花道から、黒馬に乗った直実も、登場。敦盛を追って、同じ筋を行き、沖で、やはり「遠見」に代わる。歌舞伎の距離感。子役の「遠見」同士での、沖の立回りの後、浅葱幕振り被せとなる。

 浅葱幕の上手側から、敦盛を乗せていた白馬が、無人で、出て来る。本舞台を下手へ横切り、花道七三で上手側を振り返って見せる。後ろ髪ならぬ、鬣(たてがみ)の後ろを引かれるようにしながら、花道から揚幕へと入って行く白馬。敦盛、いや、小次郎の悲劇を予感させるが、ここは、いつもの演出。

 「組打」。浅葱幕の振り落しがあり、舞台中央に朱の消し幕。浜辺には、紫と朱の母衣が置かれている。上手枯れ草の前には、矢が刺さった楯と玉織姫が持っていた薙刀が置いてある(後の伏線)。

 熊谷と小次郎の敦盛が、組み合ったまま、せり上がって来る。今回の最大の見せ場。吉右衛門・直実「一世一代」の舞台。組打ちの場面。長い立回りと我が子を殺さざるをえない父親直実の悲哀。いさぎよい小次郎。親子の別れをたっぷり演じる場面。以下、きちんと記録しておきたい。

 息を詰んだ科白で、菊之助が「早く、首を討て」と言う。敦盛身替わりの、我が子・小次郎に対して、直実は、思わず、「倅」と呼びかけてしまう。その後、絶句に近い間をおいて、直実は、「小次郎直家と申す者、ちょうど君の年格好」という言葉を続ける。この、「倅」と「小次郎直家」という科白の、間が、大人の男の情愛をたっぷり表現する。名作歌舞伎全集では、「某(それがし)とても、一人の倅小次郎と申す者、ちょうど君の年恰好」とあるが、これが原作だとしたら、その後の役者の工夫で科白廻しが変わってきたのであろう。亡くなった團十郎も同じ科白廻しだった。この方が、断然良い。「倅」という科白を前に出したことで、武人の殻を破って、父親の情愛が迸る。芝居が、ダイナミックになった。敦盛を討つ前に、思わず、倅・小次郎に最期の声をかける父親の真情が、溢れているからである。原作者の書いた科白を代々の直実役者が吟味して科白を磨き上げる。歌舞伎ならではの科白術。倅を持った父親の真情溢るる名科白に仕上がっている。大人の男の情愛が、ここには、ある。

 直実が、敦盛に斬り掛かる。菊之助の身体の前に飛び出す吉右衛門。己の身体で敦盛を隠しながら、敦盛を肩で押し倒すようにする。真後ろに倒れ込む菊之助。後ろに控えていたふたりの黒衣のうち一人が、黒い布で菊之助の首を隠す。もう一人は、黒い布の包みを吉右衛門の足元に置く。敦盛の切り首だ。ゆっくりと後ろを向き、足元の首を取り上げてから、再び、ゆっくりと前を向く吉右衛門。敦盛の身替わりに、実子・小次郎を討った哀しみが、全身から、溢れている。「隠れ無き、無官の太夫敦盛」と、直実は、声を張り上げ、己に言い聞かせるよう、周りにいるであろう連中に聴かせるようにして、我が子・小次郎の首を持ち上げる。

 ただならぬ雰囲気の変化に気がついたのか、上手の枯草の中から、敦盛の許婚で、瀕死の玉織姫(芝雀)が、這い出して来る。直実は、「もう、目が見えぬ」という玉織姫に、「なに、お目が見えぬとや……」と、確認をした上で、「お首は、ここに」と手で触らせるようにする。玉織姫は、きっと愛しい人の面影を脳裡に浮かべ、首の触感のみを味わいながら死んで行くのであろう。

 須磨の浦の沖を行く御座船とそれを前後で守る2艘の兵船は、下手から上手へゆるりと移動する。いつものことながら、3艘の船は、いわば、時計替り。悠久の時間の流れと対比される人間たちの卑小な戦争、大河のような歴史のなかで翻弄される人間の小ささをも示す巧みな演出。

 紫の母衣の布を切り取って小次郎の首を包む父親の悲哀。下手から、直実の黒馬が出て来る。続いて出て来た黒衣は、馬の後ろ足に重なるように、身を隠す。敦盛に扮した我が子・小次郎の鎧を自分の黒馬の背に載せる。兜は、紐を手綱に結い付ける。敦盛の刀なども片付ける。馬の向う側で、手伝う黒衣。黒馬の顔の下に自分の顔を寄せて、観客席に背を向けて、肩を揺すり、号泣する直実。直実を労るように身体を揺する黒馬。哀しみに耐える優しい父親と黒馬。大間で、ゆっくりとした千鳥の合方が、人馬一体の哀しみを気遣うように、そっと、被さって来る。

 その父親は、また、豪宕な東国武者・熊谷次郎直実であることが、見えて来なければならないだろう。剛直でありながら、敦盛の許婚・玉織姫と首のない敦盛(実は、小次郎)というふたりの遺体を、それぞれを朱と紫の母衣にて包み込む。恋人同士の「道行」を願うかのように、「矢を防ぐ板(台本は、「仕掛けにて流す」とあるだけ)」一枚に、ふたりの遺体を載せる。相会い舟。玉織姫が遺してあった薙刀で、板を海に押し流す。こうして、直実は黙々と、そして、てきぱきと、「戦後処理」を進める。こういう所作から実務にも長けた戦場の軍人・直実の姿が、明確に浮かんで来る。

 すべてを終えた直実は、(「どんちゃん」という遠寄せの激しい打ち込みの音をきっかけに)、我が子・小次郎の首をかい込み、黒馬とともに、きっとなる。舞台中央で静止した吉右衛門は、客席を睨む。竹本:「檀特山(だんとくせん)の憂き別れ」。やがて、上手より、常式幕が迫って来る。二代目吉右衛門一世一代の舞台。

 場内、大向こうからは、「大播磨」「大播磨」という声が数カ所で響き渡っていた。歌舞伎役者に播磨屋は、何人かいるが、「大播磨」と声がかかるのは、初代吉右衛門しかいないという時代が長年続いていた。当代の吉右衛門だって、ついこの前まで、「大播磨」とは、声がかからなかった。今回は、良くかかる。そう、二代目吉右衛門は、初代の芸域に入ってきた、ということだ。同時代で吉右衛門の舞台をリアルタイムで観ることが出来るのは、なんと観客冥利なことではないか。

 (筆者はジャーナリスト。元NHK社会部記者、元日本ペンクラブ理事)


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