済州島とパラオにみる民衆の記憶
—消された歴史の投影と復元—

柏井 宏之


◆「分断」を生んだ責任を問い続けて

 東アジアの高まる緊張の中、作家・金石範(キムソクボム)氏の発言の一言ひとことの重みが注目されている。私はもう一人、パラオのクロバック(巫女)であったトヨミ・オキヤマの母系社会から発せられた聞き取りを加えたい。今年は「敗戦」70年、その歴史を噛みしめるには、済州島、パラオという日本の植民地・委任統治におかれた島々と民衆がたどった運命をふり返ることで、今日の沖縄の強いられている苦難の持つ意味が逆に見えてくるのではないか。それは、近代化を明治維新によってアジアに先んじようとした日本という「帝国」をうつす鏡におもえてくる。

 金石範は1957年の小説『鴉の死』以来、1948年4月3日、済州島での集団虐殺(ジェノサイド)の闇に消された死者たちの魂を語り続け、30年をかけて1万1千枚の『火山列島』として書き上げた(註1)。その衝撃と反響を普遍化させて真相解明へ、一歩一歩前進させてきた。

 とくに今年の4月1日、韓国の済州4.3平和財団が創設した「済州4.3平和賞」の初代受賞者に選ばれ、その記念講演の模様が、東京・日暮里サニーホールの4.18「追悼と講演の集い」で放映され、静かな反響が広がっている。
 「私は韓国国籍も北朝鮮の国籍も持っていない無国籍者です。90年の人生をソウルと済州とで合わせて3、4年しか祖国で生活していないディアスポラ」。
 「歴史に消えた済州島四・三。人がここにこの済州の地に存在しながらも生きた人としての役目を果たせず、死んだ命として存在し続け、人ではない人の皮をかぶって命を永らえ、偽りが真実となって真実が偽りになって生きてきた長い歳月、そんな半世紀です」。

 「歴史が抹殺された所には歴史がない。歴史がない所に人間の存在はない。言い替えれば記憶をなくしてしまった人は人ではない屍のような存在だ。長い間記憶を抹殺された四・三は韓国の歴史に存在しなかった。口に出せなかったこと、知っていても知っていてはいけないことであった。一つは強大な権力による記憶の他殺、もう一つは恐怖におびえた島の人たちが自ら記憶を忘却の中へほうり込んで殺した記憶の自殺であった」。

 「四・三問題の正しい解決は公権力による再評価と合わせて真相究明、名誉回復などの事業によってさらに大きな歩みを踏み出し始めた。半世紀が経った今、亡くなった人が蘇ることはないが、限りなく死に近く深い忘却の中に、凍りついていた記憶が地上に上がって日の光をあびるようになった。永遠に抹殺することができなかった記憶の復活であり、記憶の勝利だ」。

 「いま、四・三の地の下で、凍りついた沈黙の時代とともに半世紀が過ぎ、分断70年になりました。8.15解放70年、分断70年。解放でも光復でもありませんでした。南北に裂かれた国、祖国。その独立祖国のため、どんなに多くの愛国者たちが帝国日本の銃剣のもとに斃れたことか。わたしたちは一つであって、かつ一つの民族です。…いま、四・三67周年、3年後には70周年。四・三の完全な解放によって南北が一つになる日が少しでも早められると信じているからです」(註2)。

 冒頭の“ディアスポラ”という自己規定の意味するものは、ウィキペディアを引くと、「撒き散らされたもの」という意味のギリシャ語に由来する言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。難民とディアスポラの違いは、前者が元の居住地に帰還する可能性を含んでいるのに対し、後者は離散先での永住と定着を示唆している点にある、としている。

 金石範は、済州島出身の両親のもとで大阪で生まれた。戦時中に済州島で暮らし、朝鮮独立をめざす人々と出あう。日本の敗戦は大阪で迎える。直後にソウルに行くも日本にもどり京都大学を卒業する。済州島は戦前、大阪から君が代丸の定期航路があり、四・三以降は島民が生き延びるために、大阪・生野の猪飼野や東京・三河島におおぜいやってきて在日の街を形づくった。

 日本の朝鮮の植民地支配とアジア侵略はドイツの敗北で決定的になったが降伏せず、そのため沖縄と広島、長崎を焦土化させた。日本は沖縄の後は、済州島を最終決戦場と位置付け10万の部隊と物資を送り込んだ。日本は8.15に無条件降伏したが、9月9日、南朝鮮上陸直後のホッジ米占領軍司令官は「朝鮮総督府史員復員令」をだし、日本の朝鮮支配に手を染めたものの手を借りて「分断」を用意し、李承晩の単独選挙を進めた。金石範は四・三は祖国分断に抗って蜂起した祖国統一のための“抗争”として、消された歴史の記憶を語りつづける。東西ドイツの統一が20世紀末に成し遂げられたが、アジアではこの問題はこれからの課題である。「分断」がある限りディアスポラと言い続ける金石範の迫力は天を抜く。ここに過去の日本の侵略を原罪とする歴史の責任が問われている。

◆盧武鉉時代に国家の歴史責任と清算が前進

 韓国における国家の歴史責任については21世紀にはいって大きく進んだ。「済州4.3真相究明および犠牲者名誉回復に関する特別法」は2000年1月に制定、金大中につづく盧武鉉大統領の時代には、韓国現代史の見直しと清算が取り組まれた。植民地時代から軍事政権期の事件について、真相究明・責任追及・補償を検討する「真実・和解のための過去事整理基本法」(2005年)を成立させたほか、「東学農民革命参加者の名誉回復法」、「日帝占領下強制動員被害真相究明法」、さらには親日派問題についても「日帝占領下反民族行為真相究明特別法」、「親日反民族行為者の財産の国家帰属特別法」を制定した(註3)。

 2003年には盧武鉉大統領の「済州島民への公式謝罪の言葉」が出され、2006年には58周年記念慰霊祭で次のようにスピーチしている。
 「国民の皆様、誇らしい歴史であれ、恥ずかしい歴史であれ、歴史はあるがままに残し、整理しなければなりません。とりわけ、国家権力によってほしいままに行われた過ちは必ず整理して、乗り越えていかなければなりません。国家権力はいかなる場合においても、合法的に行使されなければならず、法から逸脱した責任は特別に重く問われなければなりません」。

 しかし、大統領在任中の2009年、不正献金疑惑のさなかに自殺した。その後、李明博大統領になって、ニューライトの歴史修正主義が台頭したが、今回の金石範氏の「済州4.3平和賞」受賞は「分断」を肯定しようとする思潮は孤立しつつあるように思える。

 来日した済州四・三平和財団の李文教理事長は“国家追悼記念日になった「四・三」の今日的課題”の中で、“国家権力の悪を明るみにした国の記念日であり、「分断」に反対する闘いだった。作家・井上ひさしは、38度線は関東軍が守備範囲としたもので、日本の36年の支配がなかったら「分断」はなかったと指摘している。なによりアソシエーションの「済州島四・三事件を考える会・東京」が金石範を支え、記憶の抹殺から「記憶の復活」を成し遂げたことに感謝する”と語った。

 姜中尚は、“植民地支配と民族分断で祖国を離れ、南米、北米、アリューシャン列島から日本に出た200万人の人々が「分断」された国家を外側から見守り続けている”と語ったのをどこかで聞いたことがあるが、それは金石範のディアスボラに通じるように思える。

◆母系制を語り継ぐクロバックにあう

 私は、1980年代初め、第一次世界大戦後ドイツの委任統治から日本の委任統治に移ったミクロネシア諸島のパラオを訪ねたことの記憶がよみがえった。この島がアメリカ支配から離れて原子力潜水艦の寄港を拒否し「非核パラオ憲法」を制定しようとしている動きに刺激されて男女4人で出かけた。

 私は行くにあたって、モルガンの南太平洋の母系社会の本や南洋諸島の戦前の紀行を図書館に通って読みあさり、コロールに着くとあちこちで島の風習や母系制に詳しい人はいないかと尋ね歩いた。そうすると、母系制について話せるおばあさんがいるというので会いに出かけた。出会うなり「日本人でこの島に来た人は多いが、母系制のことで聞いた人はあなたが初めてだ。そのことについて話すにはコロールはふさわしい町ではない。私のいるペリリュー島に来なさい、そこでお話しましょう。」

 しっかりした日本語である。「どうしてそんなに日本語が話せるのですか?」「この島は先の戦争で日本が敗れるまで、日本語で教育され、私の名前も創氏改名から沖山トヨミといい、神に仕えるクロバックです。ここには日本の南洋庁がおかれ、南洋神社もありました。」
 ペリリューヘの定期船は週2便と聞いて、私たちはモーターボートをチャーターしてその島についた。下船する時、透き通った海にシマヘビが泳いでいた。

 出迎えたトヨミさんは、「この島は女たちの母系制の島で4系統がある。」「先の大戦で日本軍がここに通信所を置き、島民はバベルダオブという島に強制移住させられた。ペリリュー島は激戦になり主戦場はオレンジビーチと呼ばれるほど血の海になった」「戦争が終わって強制移住が解かれ島にもどったが、暮らした土地の境界線が破壊でわからなくなって、『一歩たりとも侵してはならない、一歩たりとて侵されてはならない』との掟によって、そのため今も4部族は仮の浜辺でずっと暮らしています。多くの戦死者の人間の体の入った土地を耕したり、踏んだり、ものを植えたりするのはよくない、仏になっている人の体をいじれば良くないからです。」と語った。

◆「土地と人間と海」を守り継承する母系制

 母系制を語る場所と言って案内されたところは、なんと日本軍の通信所跡だった。破壊されたコンクリートからゆがんだ鉄骨がむき出しの荒れた地で、そこでおつれあいとで話しを聞いた。近くには破壊された戦車が海にも陸にも35年経っても散在していた。そして、島民が仮の浜で暮らすのをしり目に、いたるところに日本軍兵士の石碑の慰霊碑が立ち並ぶ異様さと無神経さ。

 「母系というのは、女が土地の相続者で、男は母方になります。母系は土地と人間と海に関係しています。土地は4つの女の族に分かれています。上下はありません。神がくれた順に1、2、3、4、と順序を付け、5は1の、6は2の族になっていきます。みんな女の族のもとに個人は入って、一時は自分の土地を持てます。しかし土地は共同の所有だから勝手に売ることはできません。
 私はクロバックの役を持っています。神から継承をしている役人のことです。島に村ができて以来、今日まで続いています。クロバックが非常に気をつけてきたのは、母系の生まれを間違いなく継承させ、世の末まで続けることです。私の母の母の母へと、切れ目が一つもなく続いてきました。こうすることで、土地を神から伝え、戦争によって取ったりしないようにしています。4つの族は神から正当にもらったものを同じように平等にしてきたのです。男の人はややもすれば、他人の土地を取ったり、少しでも増やそうとします。しかし、私たちの島の土地は、増やしても削られてもいけないのです。」

 「クロバックがしなければならないことは神に拝むこと、儀式を大事にして伝統を伝えることです。仕事は10あります。人に気をつけてかばう、人や物を生かす、取らないこと、同じように正しくやる、等しくする、間違いのないようにする、敬うこと、裁くこと、賢くさせること、善にもどすこと、です。この島に法による処罰はありません。殴ったり罰したりするのではなく、10の教訓で、人に実行させてもどすのです。」

 「アメリカがパラオの島に毒ガス貯蔵庫を造ろうとしたり、核を積んだ原子力潜水艦を持ち込むことに対して、私はクロバックとして“土地と人間と海に関しては、クロバックが神から与えられた領域で侵すことはできない”と言い続けています。それ以外の島の政治は男たちがアバイ(集会所)で決めることができますが、“土地と人間と海”に関してはアバイで決めることはできません。」(註4)

◆帝国列強の支配と核実験場になった信託統治

 日本が第一次世界大戦で当時ドイツ領であったミクロネシア、マーシャル諸島、北マリアナ諸島、パラオを占領、1920年に委任統治領として統治を開始した。国際連盟認可のもと、パラオは南洋群島の一部となり、コロールには南洋庁が置かれた。,6500人の島民に3万人の日本人町がつくられ、南洋神社が創建され、創氏改名と日本語教育が行われた。大日本帝国軍の前線基地として激戦地となった(註4)。南洋諸島の日本の委任統治はペリリュー島の敗戦とともに終わりを告げ、旧南洋諸島は戦後、太平洋諸島信託統治領としてアメリカが統治することになった(註5)。

 今年、天皇はパラオ訪問にあたり「日本軍は約1万人、米軍は約1,700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と述べ戦後70年の慰霊が行われたのは記憶に新しい。

 だが、無神経にもパラオを「天皇の島」と呼び「第一次世界大戦後より国際連盟から任された委任統治領だったのであり、侵略してきたのは日本軍ではなくアメリカ軍だった」と強調する論があいかわらず論壇を飾っている。島を破壊しつくした反省や謝罪はなにもない(註6)。
 太平洋には4,000以上の島がある。これらの地域は、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリア、ニュージランドの信託統治が今も継続されている。アメリカは、北マリアナ、グァムなど11地域、フランスはニューカレドニア、ポリネシア、イギリスはクリスマス島などで多くの核実験、水爆実験を繰り返した。

◆支配文化は放射能のように残留する

 そうした中でパラオは1979年「非核パラオ憲法」を住民投票で可決したが、アメリカの核戦略からの離脱をめざし、わたしたちは大阪軍縮協からの連帯を携えて出かけた。その「非核パラオ憲法」の祝賀の場に出かけたが、その時唄われた歌がまるで演歌のような音色に、委任統治時代の日本の文化が放射能のように残留しているのに驚かされた。

 この点に関して、詩人・金時鐘は、日本語教育の中で皇国青年となり「私にやってきた植民地は、物理的な収奪や過酷な仕打ちの植民地ではなくて、いたってやさしい日本の歌としてやってきた植民地だった」とし、金素雲が日本語に訳した『朝鮮詩集』を批判、藤村や白秋をまねた日本語の抒情の「感性の呪縛」を解体するために「再生」のための「再訳」に取り組む。それは大阪文学学校を主宰した小野十三郎の日本の抒情詩が「奴隷の韻律」であるという徹底した否定の方法論を見つけ「在日朝鮮語としての日本語」で詩を書く態度を見出している(註3)。

 アメリカ政府の意向を受けた信託統治領高等裁判所が住民投票の無効を宣言、自治をめざすパラオとアメリカとの確執がつづき、7回の住民投票はアメリカの駐留と見返りの経済援助のコンパクトを否定しつづけた。1992年クニオ・ナカムラが大統領に。父は三重県伊勢市の出身。国旗のデザインは日の丸が元になっているとされるが、海の青に黄色い月。そこにはむしろ稲作と太陽神の男の専制とは異なる生命の満ち引きと女の平等の対抗概念の方が私には強烈だ。

 1993年には、緩和された可決条件の下、8回目の住民投票でアメリカ合衆国とのコンパクトが承認された。これにより、1994年10月1日に、コンパクトによる自由連合盟約国として独立し、国連による信託統治が終了。同年に国際連合にも加盟した。
 私たちは、「敗戦70年」にあたって、植民地支配や委任統治がもたらしたそれぞれの地域に住む人たちとコミュニティのことをどれほど見つめたことがあるだろうか。「歴史がまっさつされた所には歴史がない。歴史がない所に人間の存在はない」の言葉の意味はこの8.15に問われる。

(註1)1984年に大佛次郎賞、1998年に毎日芸術賞を受賞
(註2)「四.三の解放」金石範(授賞式での記念講演録)
(註3)参照 金石範・金時鐘「増補 なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか—済州島四.三事件の記憶と文学—」(文京洙編 平凡社)
(註4)「社会タイムス」に初出の記事があるが、「母系社会の南太平洋の島」(みんなちがってみんないい 編集/生活クラブ生協平和と人権部会・同時代社)
(註5)ウィキペディア「パラオ」を参照
(註6)『㈸oice』特集「武士道とペリリュー島」2015.5

 (筆者は参加型システム研究所客員研究員)


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